2017年06月12日

『鵤庄引付』と新たな<契約>発見

先月末、荘園つながりで太子町の鵤荘を歩いたこと報告しました。
今回は、太子町は斑鳩寺に遺る古文書『鵤庄引付』(いかるがのしょうひきつけ)の紹介をしたいと思います。



『鵤庄引付』冒頭部分


『鵤庄引付』は、応永五年(1398)から天文14年(1545)までの約150年間の荘園内で起こった様々な出来事とその時の対応の様子を、政所が書き留めた事務記録です。矢野荘が記載されている世界記憶遺産の『東寺百合文書』には及びませんが、平成24年に国指定重要文化財に指定されています。

今回、太子町歴史資料館によりその現代語訳がなされ、冊子が発行されました。『鵤庄引付-室町・戦国時代の日々-(初稿)』です。興味ある方は資料館で販売しています(600円)。






さて、早速見てみると冒頭の方に「契約」という文字が目に飛び込んできました。原文を見てみると見出しに「契諾」とも書かれ、「契諾 幡州鵤庄政所舎宅并敷地事」、終わりの方に「仍為後代明証、令契約之状 如件、」とあります。

「契約」という言葉は、これまで勉強会や矢野歴史講座で取り上げてきました。もともとは、「売買契約」など現代で使われるような二者間の法的な意味合いではなく、「一揆契約」など共同体や集団のメンバー同士による固い約束を意味したということをお伝えしました()。そして、それは民主主義や合意形成を考える上で、つまり地域(集団)の自律にとって大切なキーワードであると。

歴史家で評論家の故・山本七平もこの「契約」という言葉について、次のように語っています(山本七平『宗教からの提言』2016)。

「コントラクト(contract)という英語の翻訳語ではなく、契約という言葉は、足利時代に盛んに出てくる」
「日本人の場合は、人と人との話し合いが絶対であって、最後に誰かに証人になってもらう、その証人に神を引っ張りだすということは昔からあるわけで、それは先に集団契約があって、その保証に神が出てくる」


「契約」は仲間同士が自分たちで決めた約束(「掟」)であって、その保証人に神がなるということでした。その実際の行為が起請文であったり一味神水であったわけです。(なお、山本七平は、『聖書』ではそれぞれ個人が別々に神と直接契約を結ぶ上下契約であることを指摘しています)。

しかし、今回、『鵤庄引付』に記載される「契約」から私自身新たな発見がありました。『引付』の中に、上の「契諾 幡州鵤庄政所舎宅并敷地事」と題される同じ内容の契約状が二つ記載されています。その内容は難しくて私自身よく分からないのですが、どうも領主である法隆寺と現地鵤荘の政所との間で交わした契約のようなのです。

法隆寺が、ある本供養を執行するのに、鵤荘はそのための費用(年貢や課役)を負担し、もし万が一それを怠れば、法隆寺が鵤荘に無期限で貸している政所の建物と土地を没収するというものです。そして、二つの契約状というのが、内容は同じなのですが、法隆寺と鵤荘それぞれの立場から書かれているのです。法隆寺側が書いたとみられる契約状は、現代語訳で

「ここに賦課される年貢などの諸役や臨時の課役等は、すべて預所が命ずる。定められた諸役等を怠けることがない限り、永代、預けるものである。もし、未進・不法があった時は、速やかにこの政所屋敷等を取り返す。その時、一切言い訳等は聞かない。後代の証拠のため、契約状、件の如し」
  
一方、鵤荘側が作成したとみられる契約状では、
 
「ここにかかる年貢などの諸役や臨時の課役等はすべて預所が命じ、その負担をする。(中略)決して不法や懈怠(けたい)があってはならず、請け負った年貢等の未進や懈怠がなければ、永代預けられる。もし、未進や不法があった時は、速やかにこの政所屋敷等は取り返され、その時は決して一言の異議も言いません。すなわち、後代の亀鏡(きけい)のため、契約状、件の如し」

ちなみに、「未進」は年貢などの税を進上しないこと、納めないこと。「亀鏡」はよりどころとなる規範、証拠です。法隆寺側は、「永代預ける」「政所屋敷等を取り返す」「一切言い訳を聞かない」。鵤荘側は、「永代預けられる」「政所屋敷等は取り返される」「一言の異議も言いません」。なんか面白いですね。

ここから分かることが二つあります。この「契約(契諾)」は集団契約ではなく、二者間の契約であること。そして、その契約状が二者それぞれの立場から作成されていること。驚きでした。これまで知っている契約は、一揆契約などメンバー同士の契約(約束)であり、メンバー全員による連判がなされているもので、この頃の「契約」は集団契約だけだと勝手に思っていました。果たして、これは一般的なことなのか、鵤荘の特殊な事例なのか。今度専門家に聞いていみよう。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 16:23Comments(0)矢野歴史考

2017年01月12日

矢野歴史講座18-まとめ:自治は共同体から始まる

今日は、長らくそのままになっていた「矢野歴史講座」です。

「矢野歴史講座」は、矢野町の地域づくりを行うにあたって地域自治あるいは住民自治を念頭におき、自身の歴史から何かヒントを得ることができないか、と中世の荘園「矢野荘」を題材に開催してきました。前回から1年以上経っていることもあり、とりあえずここで一度閉めようと思います。というわけで、今回は矢野歴史講座のまとめ(総括)となります。

この講座は、矢野荘の起こりから始まり、奪われた権利の主張者として「悪党」を捉え、本題の地域自治・住民自治に関わる「惣村」という村落共同体へと話は進みました。矢野荘で実際に起きた惣荘一揆を『東寺百号文書』をひもときながら、一味神水などそこにある自治性を見ました。

そして、惣村の中身へと向かいます。村落自治の根幹にあるのは「寄合(よりあい)」、寄合での話し合いです。全員一致へと向かう寄合での合意形成のあり方を詳しく見ました。時間をかけて話題を回すうちにメンバーがストンと腑に落ちるところに話が落ち着く。その結果に対してメンバー全員が守ることを約束する、このことが全員一致の意味(=合同一致)でした。つまり、ここには少数意見を切り捨てるような「説得」ではなく、メンバー間の「納得」がありました。そして、この約束の事柄が「掟」となるのでした。掟の事例で取り上げた東北地方の歴史的な自治組織「契約講」の「契約」とは、メンバー(当事者)間の約束を意味しました。

こうして見てくると、そのメンバー間には「仲間」という関係性が浮かび上がってきます。私は人間学的に共同体とは「仲間」という関係体と考えるのです。メンバーの個々は「信頼」でつながっている、それが「仲間」だと思います。村落共同体は、共同体の円滑な運営のためにこの「仲間」という関係を維持していく必要があり、そのために祭りやとんどなどの年中行事や寄合の後の直会(なおらい=共同飲食)など、先人たちはこれまで努力を重ねてきたのだと思います。

ところで、昨年は国民投票でイギリスがEUからの脱退が決まり、アメリカでは選挙により保護主義のトランプ氏が大統領に選ばれるなど「民主主義は本当に大丈夫か?」と問い沙汰されている昨今、先日、民主主義をもう一度学ぼうと直接民主主義を唱えフランス革命を牽引したルソーの『社会契約論』にあたりました。当初、この「契約(contract)」は、近代的な1対1の契約、国家と人民の契約と勝手に想像していたのですが、実は先に述べた村の寄合で当事者間の「約束」に近い意味で使われているということがわかりました。目から鱗です。

『社会契約論』の「契約」と「契約講」の「契約」は、同じ意味だったのです。ルソーは自律した人民同士の約束により国家が形成されると考えていた。この講座で以前「中世の『惣村』時代から続く寄合はそれこそ日本の民主主義であった」と記しましたが、それが証明されたような気分です。しかも契約講の成立は中世ですから、ルソーが民主主義を夢想し『社会契約論』を著した時(1762年)よりもずいぶん早く、日本の村の寄合は民主主義を先取りしていたと言えなくもありません。

民主主義の本質は、多数決ではなく、対話(ダイアローグ)で真摯な話し合いを重ねるプロセスにあるといわれます。民主主義を守り地域自治を育て根付かせるためにも、私たちはかつての村の寄合をもう一度、見つめ直してみるのも大事ではないでしょうか。共同体は歴史的に共産主義やファシズムに利用された側面もあります。今後は、共同体や民主主義についてもう少し深く掘り下げていきたいと思います。



とんど-矢野町上 (2012)




  続きを読む


Posted by 矢野町交流広場 at 11:15Comments(0)矢野歴史考

2015年07月03日

矢野歴史講座17-入会地の「所持」について‐

今回の「矢野歴史講座」は「入会地(いりあいち)」を取り上げたいと思います。惣村自治を構成する要素の一つに村の共有財産としての山林(里山)を上げることができます。惣村は、薪や草など生産(主として稲作)に必要な資源を山林から採取していました。里山は村の共有財産として共同で管理し利用してきました。そこは村の一員であれば誰もが利用できます。そういう土地を「入会地(いりあいち)」といいます。今回は入会地というものの性格を「所持」という観念からみていきます。

今では、里山は薪から石炭・石油といった燃料革命によりその利用価値がほとんどなくなり、高齢化で作業できる人が減ったというのも一つにありますが、人手が山に入らず大部分が放られ荒れた状態にあります。。そのせいか、イノシシやシカなどが人家のあるムラまで下りて来ては、作物を荒らすようにになりました。また、大雨など天災時の影響も懸念されます。

かつて入会地は共同で利用する「場」であり、ゆえに共同で管理されてきました。以前、契約講で取り上げた規約書である「伝帳」には入会地である共有山林を「村持」と記載しています。「村持」とはどういう状態をいうのでしょうか。「村持」とは村の「所持」です。「所持」は所有と違います。法的にも所有が、物を全面的に支配し、どのように利用(処分)することができるのに対し、「所持」とは物がある人の事実的支配の下にあるとみられる状態をいい、一時的に物を支配しているにすぎません。

哲学の桑子敏雄は、「所持」には誰かからの「預かり物」という意があるといいます。入会地は、古代以前からの日本人の自然観からすれば、いわば神様からの「預かり物」でしょうか。あるいは近世以降では領主からの「預かり物」でしょうか。少なくとも農民には入会地は今でいう絶対的な意味での所有という観念にはなかったと考えられます。共同管理による共同利用という範囲での「所持」です。つまり、入会地(里山)に対しては今でいうと所有権ではなく利用権を有していたということになります。

しかし、明治になり西洋の「所有」概念が入ってきました。入会地は個人に分割されたり、あるいは「無主の地」(所有者がいない土地)ということで、政府が農民から取り上げていくことになります。運よく集落に残った入会地に対しても集落は法人格をもたないため、個人に分筆され「共有」という所有形態をとることになります。こうして誰のものでもあって誰のものでもなかった入会地の里山が個人の財産(「所有」)へと変貌を遂げていきます。

近年、山林を始め集落の共有財産を個々の「共有」ではなく、集落(団体)として所有するために自治会は公的な「地縁による団体」を申請し、自治会で法人格を取るようになってきました。この所有形態を「総有」といいます。ちなみに、「地縁による団体」の規約では世帯ではなく個人が構成員となっています。この点で現実とのかい離があり、規約は対外的でユニバーサルなものと言え「掟」ではありません。



入会地「里山」


こ  
タグ :入会地所持


Posted by 矢野町交流広場 at 13:43Comments(0)矢野歴史考

2015年06月19日

矢野歴史講座16-「掟」の現代的意義を考える

集落の総会での決め事から普請(共同作業)や葬式の取り決め、そしてメンバーの倫理規範まで、「掟」「仲間」内(共同体)で作られる決まりごとでした。そしてそれをみんなで守ることを約束する行為が「契約」でした。

では、「掟」は何のために作られたのか。それはひとえに自分たちが「生きる」ために共同体を円満に存立せしめ円滑に維持するためといえます。これまで村落共同体の一員としてご先祖様はここに苦心し多大な労力を費やしてきたのではないでしょうか。

しかし、ご先祖様が生きた時代と今私たちが生きている時代は社会構造がまったく違っています。かつてのように集落全体が農作によって立っているわけではなく、私たちは個々が独立し様々な職業により生計を立てています。つまり、かつてのような稲作を中心に自然と存立した村落共同体は成立しなくなっているのです。そのような時代変化、社会構造のなかで、今、「掟」にどんな意味があるのでしょう。

「掟」は「仲間」内(=共同体)で作る約束事でした。つまり、共同体がなければ「掟」など存在しないわけです。地域という範囲でみた場合、地域共同体はあるのか、ということです。

現在の社会の状況を鑑みるとき、全国において高齢化が進展しています。政府は認知症など高齢者のケアについて行政だけでは手に負えず、「地域包括ケア」という考え方のなかで地域に下ろそうとしています。また、近年あちこちで起こる大きな自然災害です。そういう現実の状況のなかで、それらに立ち向かう手段として再び「地域の絆」や「地域コミュニティの再生」ということが発せられ、「共同体」自体が見直されているのです。

つまり、かつての村落共同体ではなく新たな地域共同体が必要とされています。哲学的にいえば、それはまさにあらなければならないもの(当為)としての共同体ということになります。これまで高度経済成長とともに家族や地域コミュニティの希薄化が進みましたが、共同体は上記の助け合いや人間形成において人が生きていく上でやっぱり必要なんですね。ただ、今ではかつてのように農耕を中心に自然と共同体が存立しませんので、現代の私たちは知恵を絞り地域で共同体=「仲間」という関係をいかに築いていくかがカギとなっています。

話を「掟」に戻して、結局、当為概念として地域共同体は存在し、したがって「掟」もまた存在しうるということになります。「掟」は「仲間」(共同体メンバー)が寄り集まって自分たちで作った約束事でした。前述の自分たち地域の高齢者のケアをどうするかだとか、災害時に地域は具体的にどう行動するかだとか、それ以外にも地域に起こる課題に対して、当事者である地域の人たちが主体的に寄り合い、どうするか話し合って決める。そして決めたことはきっちり実行する。そうやって地域共同体(「仲間」という関係)の人たちが自ら決めたことが「掟」なんだと私は思います。

最近の学的研究では、民法や刑法といったユニバーサルな法律を「hard law」、それに対して自分たちだけに通用する決まりを「soft law」といい、これからの社会のあり方として「soft law」の重要性が指摘されています。まさに「掟」は「soft law」であり、地域自治と切っても切れない関係にあるといえます。



「契約」の風景   (平成19年長尾契約講 宮城県石巻市北上町長尾)



  続きを読む


Posted by 矢野町交流広場 at 12:18Comments(0)矢野歴史考

2015年06月12日

矢野歴史講座15-「掟」について

矢野歴史講座、今回は荘園時代の村-惣村そうそん-における自治の特徴の一つ、「掟」(惣掟そうおきてについてみていこうと思います。

「掟」と聞くと何か怖いイメージがありますね。みなさんはどうですか。「掟」とは一体どういうものだったのでしょう。たぶん矢野町の14集落でも現在、村の「掟」が残っているところはないんじゃないでしょうか。「掟」は成文化されることが必須ではないので、たぶんそれは今では道つくりや溝掃除などのいわゆる普請(共同作業)としての決まりやお葬式での取り決めが慣習として存在するのだと思います。

以前、中世から存在する村落の自治組織として主に東北地方に残る「契約講」という組織をここ(http://yanochohiroba.tenkomori.tv/e274347.html)で紹介しました。今回その契約講の「掟」をみてみましょう。



ここに宮城県石巻市北上町の行人前村に残る『契約講中掟覚帳』という古文書があります(上写真)。弘化3年(1846)とありますから江戸時代の末期に書かれたようです。「覚帳」とあるように、年2回ある「契約」(今でいう自治会の総会にあたる)で決議されたこと、あるいは村の出来事が記録されています。いわゆる今でいう議事録です。その議事録がつづられる前段ページの最初の紙面に「掟」という文字が書かれています。

「掟」の内容は、最初に「契約」(総会)が期日に間違いなく執り行われることとうたわれ、契約講の人員、「契約」(総会)は必ず出席すること-個人の所用で欠席しないこと、葬式の互助について「地取(じどり)」「陸尺(ろくしゃく)」「飛脚」といったそれぞれの役割が細かく書かれています。また、集落内の互助作業「結」についても家を建てたり屋根の葺き換え等入り用があれば手伝うこととあります。

そして、「掟」の最後に「右の通り取り決めたので間違いなく固く守るようにし、それぞれが心掛けて日々の生活をおくり、もし背く者があれば仲間一同(契約講員を「仲間」と呼んでいます)が集まって吟味し、講員から除外する」ことが明記されています。つまり、「掟」に背いたら罰則があったわけです。当時は講員(=「仲間」)からの除外が最も厳しい罰則だったようです。共同体を外れると生きていけませんから。この記述の後に講員全員による連判が続きます。

時が下って明治4年(1871)に7条からなる新たな「掟」が追加されたようです(下写真)。一つずつ見ていくと、

 ①朝夕の礼儀を堅く守ること(挨拶)
 ②老人を敬い仁義を尽くすこと
 ③同輩と交わり喧嘩口論等しないこと
 ④同輩のことを陰日向で悪口を言わないこと
 ⑤他村で口論等が起こったときは見捨ててはならない
 ⑥たとえ酒の上のことであっても他人の悪口を言ってはならない
 ⑦取り調べや話し合うことがある時はただちに集まって寄合をすること


となっています。これらをみると、村落(あるいは今では地域)が他人との関係性のなかで人を作り、育ててきたことが分かります。



そして、この箇条のあとに「家の者(妻子供)にも普段から言い聞かせておくこと」「背いた者がいる場合は、講員で取り調べの上五貫文(銭五千文)の罰金を申しつける」ことになっています。ここで「掟」に背いた罰則が講員の除外ではなく罰金になっているところは興味あるところです。

このように「掟」の中身を見てくると、「掟」とは共同体という「仲間」内での決め事といえます。それらは自分たちで寄り合って決めたものです。ですので、一揆に通じる連判を行うことによって堅く守ることを誓ったのでした。それに背くと当然のごとく罰せられたわけです。

そして、この「掟」の有り様から「契約講」で使われるもともとの「契約」という意味が見えてきます。すなわち、「契約」とは「仲間」(共同体)で取り交わす決め事、約束だったのです。

次回、「掟」をもう少し掘り下げて、「掟」の現代的意義について考えてみたいと思います。


  
タグ :契約講


Posted by 矢野町交流広場 at 12:33Comments(0)矢野歴史考

2015年06月08日

矢野歴史講座14-前回の補足

矢野歴史講座も終盤にかかっています。といっても前回が昨年の10月でした。がんばります。今回は、次のテーマに入る前に少し前回の補足をしておきまよう。

前回の「村の合意形成と全員一致」では、村の寄合で行われる合意形成で全員一致とはどういうことかをみてきました。一揆の一味神水や起請文(当事者全員による誓約書)や村の掟に印される血の連判は、全員一致の証明というよりは、その決定に対して全員が遵守することを約束する儀式ではなかったかと言いました。そのことを以前にも取り上げた『東寺百合文書』「播磨国矢野庄例名内是藤名名主実長申状」の一文が物語っています。

その申状は、東寺が1377年の惣荘一揆の首謀者を名主である実長一人に押し付けて、農民の結束を分断させようとしたのに対して、実長が反論したものです。

「惣荘50余名の名主数十人、一味同心に連判をもって訴え申すとき、いかに一人異議を唱えることができようか。もし惣荘の一揆に背いたらたちまち罰せられるので、一旦の難を逃れるため本意にあらずといえども判を押したのだ。何によって一人に首謀者を押しつけるのか。当名(是藤名)を奪い取ろうと貶める企てだ。容易に推し量れる。もし現地農民の連判した者すべてに罪があるのなら、荘園の住人すべてにその咎めを行いなさい。すでにその考えはなく、祝師(ほうりし)は去年行貞名を充てがわれている」。


この文章はなかなか興味深い文章です。ここからいろいろと推測できます。

まず一つは、自分が言うように一揆の一味神水は全員一致ではなく全員が約束を守る儀式、いえ、約束を破らないことを誓う儀式といえます。

そして、二つ目に惣荘の中心人物である実長は必ずしも惣荘一揆に賛成ではなかったということ(これは咎めから逃れるために嘘かもしれませんが)。

三つ目にリーダー一人の考えが絶対ではなく、決議は寄合でみんなで決め、その責任はメンバー全員にあること。民主的といえます。

当時の農民(ご先祖様)の寄合(惣儀)の有り様が分かりたいへん興味深いです。これも『東寺百合文書』のお陰ですね。世界記憶遺産に認定されるのが待ち遠しいです。



「播磨国矢野庄例名内是藤名名主実長申状」『東寺百合文書』
(京都府立総合資料館アーカイブより)


こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 14:28Comments(0)矢野歴史考

2014年10月30日

矢野歴史講座13-村の合意形成と全員一致

前回、村の寄合がどんなだったかを見てきました。寄合こそが地域自治の基盤であると考えるので、この講座の中でも最も描きたかったところです(さらに突っ込んでいうと、その寄合を可能せしめる状態、すなわちメンバーの関係性が重要となります)。
今回は、その寄合の中で行われる村の合意形成についてみていきます。

「合意形成」。これはなかなかくせ者です。なかでも普天間の飛行場移設、諫早湾の開門、鞆の浦の景観、身近にもゴミ処理施設の設置など利害関係が生じる社会的合意形成は、かなり難問です。

ところで、前に一揆のところで出てきた、決め事に対して神の前で誓約する「起請文」には、それに参加した全員の署名がなされ血判がありました。そのことからもわかるように、村の寄合の議決は全員一致の原則のもとにあると考えられてきました。では、ここでいう全員一致とはどういうことでしょうか。

法学の大竹秀男らは村法(村の掟)に「多分につくべきこと」と記され、「多数者が少数者を納得せしめて多数意思に同調せしめたことにより全員一致に導かれた」と、ある意味、多数決の原理が存在したことを指摘しています。「多分につくべきこと」、これを多分の儀といいますが、多分の儀について当時(中世)の寺院の評定集会から少し掘り下げてみましょう。

当時、多分=道理という観念にありました。評定集会の規則では、多数意見に対し少数意見の持ち主が自説にあくまでこだわることを禁じています。集会に参加するメンバー全員(一味同心)は、平等で主体的に意見を述べることができ、正しく投票することを神に誓いました。そこで得られた多数の一致による結果は、神の意志による議決とされ、道理であり正義とされたのでした。このことにより一味同心による決定を全員一致としたのです。


起請文に書かれた「合点(がってん)」(高野山違犯衆起請文)-賛成の方に傍線を入れる
[勝俣鎮夫(1982)『一揆』、p.19]より借用


そう考えると、起請文や村の掟に印される連判は、全員の意見が一致したことを証明するというよりも、一揆の一味神水のように、その決定に対して全員が遵守することを確認する儀式ではなかったかと思うのです。何はともあれ、日本でも近代以前のずっと昔から多数決という原理があったことを見出すことができるのです。

さて、ここで村の寄合に立ち返ってみましょう。前回、宮本常一の体験で見てきたように、村の寄合は、何時間も何日間も時間をかけて話し合うことを旨とし、いくつもの話を転がし転がして、無理なくみんなが納得する結論へと到達するのでした(何らかの自然意思が働くのか)。当然、その過程で多数派と少数派に分かれることはあったでしょう。しかし、村の寄合では、その時間をかけた進行の中に、単純で機械的な多数決ではなく、多数派は少数派に自発的な納得(説得ではない)を促す有機的な意思とそのための努力が注ぎ込まれたことでしょう。こうして得られた決定が、寄合における全員一致であり、いやむしろ全員で作り上げたことから合同一致と呼ぶべきかもしれません。

ここが近代的な会議(たとえば議会)と寄合の違いです。寄合は、討論して片方を論破というよりも、話し合ってまとめる・うまく治めることに重点が置かれます。それは、寄合が共同体による話し合いだからです。私見ですが、共同体は「仲間」という関係でできています。共同体を生きるということは、「仲間」関係を維持し、秩序を保つことが最も重要だったのです。

民俗学の桜井徳太郎は『結集の原理』のなかで、「こうしてつづけられる忍耐強い寄合形態こそ、共同体による議決方式のもっとも典型的な姿を示すものではないか」と述べています(桜井、1985、p.25)。寄合は、伝統的な日本型の合意形成のあり方だといえます。そして、とりもなおさず、寄合は近代以前から民主的で、より人間的であったとみることができます。今、まさに自律した集落や地域、集落自治・地域自治を目指すにあたって求められているのは、この寄合なのだと、ぼくは考えるのです。

最後に、寄合には、会議でも同じですが、大事な暗黙のルールとして平等性があります。寄合では、その構成員全員が平等に発言権をもち十分に議論できなければなりません。宮本常一が見た寄合でも、郷士(ごうし:地域の下級武士)といえども寄合の中では農民と同じように扱われました。そして、寄合の権威により、村の有力者による専制的な意見支配や強圧手段は、もっとも強く非難され、排除されることになります。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 17:49Comments(6)矢野歴史考

2014年09月16日

矢野歴史講座12-寄合について

矢野歴史講座、約1年ぶりのご無沙汰となります。この矢野歴史講座は、シリーズの構成や資料の準備・調査、そして原稿作成など下準備に時間がかかり、かなりエネルギーを費やします。でも、ようやく終盤にかかりました。

昨年の前回までは、矢野荘、荘園時代の地域自治・住民自治を体現した自律した村落である「惣村」に着目し、そこで結集される「一揆」というものの本質に迫りました。それというのも、これからの矢野の地域づくりにおいて、いや日本全国の地域づくりにおいて地域自治や住民自治は外せないキーワードですし、ご先祖様が築いた「惣村」の共同体自治から何かを学ぼうと考えたからです。

「矢野歴史講座6」で、惣村の主な特徴を6つの切り口であげました。①協議機関-寄合、②規約の制定-惣掟、③共有財産-入会地、④共同作業-普請、⑤年貢納入、⑥抗議行動-一揆、です。終盤の矢野歴史講座では、これら惣村の特徴のいくつかを内容的にどんなであったかを少し見ていきたいと思います。ちなみに⑥の抗議行動-一揆は前回までで終了。

さて、今回は、ぼくが共同体自治の根幹にあると考える「寄合」について見ていきます。寄合は前回とりあげた一揆の作法=起請文の作成や一味神水を行う上でも重要な役割を果たしました。さすがに当時の寄合の様子を示すものは残っていませんが、寄合自体は変化の少ない農村地域ではこの流れを汲んで近年まで続けられてきたと想像できます。

そこで、ムラの寄合の様子がどんなであったかは、民俗学者の宮本常一が著した『忘れられた日本人』(昭和35年、未来社)の中の「対馬にて」が詳しいです。そこには、宮本が戦後間もない長崎県対馬地域に調査で入った時に自ら体験した村の寄合の様子が書かれています。ほんとはその臨場感ある記述を読んでもらうのが一番いいのですが、ここではそういうわけにもいきませんので、要点だけまとめましょう。

宮本が体験した村の寄合は、全員が納得いくまで、無理をせず自然と結論に向けて落ち着くように話し合われています。だから当然、時間もかかり、昼夜問わず何時間も何日間もかけて話し合いがつづきます。かつては家族の者が食事を寄合にもってきていました。話し合いは、一つの議題に対し村びとが自分の体験・経験にことよせてゆったりと転がすように話し合われ、どんなに難しいと思われた議題も大抵は三日で結論が出たようです。このように村びとの代表たちが一丸となり精魂こめて導いた結論に対し、村びとは全員がそれをきっちり遵守します。これが寄合のもつ権威であり、暗黙のルールであったようです。

民俗学の高取正男は、この宮本が語る寄合について、「こうした場でなされる協議はまさしく話し合いのための寄合いであり、手に汗をにぎるような甲論乙駁の筋を追った議論とは正反対のものであった」。そして、寄合の話し合いを連歌に引き寄せ、「ひとつ以上の主題から発した集団の連想の環が、じっくりと腰を落ちつけ、展開するのを味わっているうちに、やがて帰すべきところにもどってゆき、すべてのものの納得のうちに集結する姿は、論理の次元とは別に見事な調和を示している」と述べています(高取、1995、『日本的思考の原型』、p.62)。これこそ寄合の妙味というものでしょうか。

寄合の話し合いの場では、いろんなしがらみの中で、今日のように論理づくめでは収拾のつかないことも少なくはなかったでしょう。そのようなときは、自分たちの体験してきたことにことよせて、誰もが不快にならないように時間をかけ、インターバルをおき、話し合いがなされました。ここに村びと相互の気遣いがみられます。

そして、どうしても話し合いの中で結論にたどりつけない時は、最後に「長に決を託す」という手法がもたれます。それは、毎日顔を突き合わし、互いに助け合っていかなければ生きていけない村落共同体ゆえのことだったのでしょう。つまり、そこには共同体としてのよりよい人間関係の維持を第一に考えていたことが見受けられます。それが寄合における運びの知恵であり、寄合における合意形成の意義といえます。

民主主義の根幹である「熟議」が重要視される今日、このようにかつての村の寄合をみていくと、中世の「惣村」時代から続く寄合はそれこそ日本の民主主義であったと思えてなりません。近代以前から日本にも(日本的な)民主主義はあったのです。しかし、それが近代以降の中央集権国家による社会構造の転換から住民レベルでの自律の民主主義は弱まっていったように思います。


  


Posted by 矢野町交流広場 at 14:02Comments(2)矢野歴史考

2013年09月12日

矢野歴史講座11-一揆の現代的意義

ここ3回は、矢野荘で行われた惣荘一揆から始まり、「一揆」とはどういうものかみてきました。惣荘一揆は中世後半の惣という自治組織(自律した集落)の集まりから生まれたものでした。現代と社会の成り立ちや背景が違いますが、自律した地域・地域自治の実現をめざす矢野町にとって何かそこから学び、感じ取ることができないかという思いで書きました。

確かに宗教色の強い一味神水を今の時代そのまま行うのはナンセンスです(ただ、今でも「直会(なおらい)」といって神酒を一つの杯で回し飲む、似た行為がお祭りのなかで儀式としてあります)。しかし、自律や自治という観点に立って考えたとき、そこから感じとることができるもの(センス)が確かにあります。それはなんだろうと考えたら、「覚悟」という言葉が浮かびました。

ここに書いてきた内容はすべて、矢野荘の記録が収められている「東寺百合文書」に記載されているもので、私たちご先祖様が実際に経験してきたまぎれもない事実です。これらからご先祖様がその時代をいかに必死に生きてきたのかをまざまざと感じ取ることができます。「覚悟」のほかにも「連帯」という言葉が浮かびました。

一揆は主体的に参加した個々のメンバーによって構成されています。そのような一揆はメンバーの自律性や独立性を特徴とし、「一揆に張本人はない」と実長が主張したように、メンバーの「平等」意識を基本的な属性としています。日本中世史学者の勝俣鎮夫は『一揆』という自身の著作のなかで、戦時平時を問わず一貫して一揆に流れる精神は、メンバーの「共同の精神」だといっています。一揆をむすぶことによって「共同の場」を創出しようとしたと。

また、勝俣は惣荘一揆について次のようにいっています。

「惣荘一揆とよばれる一揆は、惣という重層的な階層構成をもつ村落共同体を、一揆という形をとることにより、別の次元の、成員を平等とする『共同の世界』を一時的につくりあげるとともに、惣的総合を母体とすることにより、その一揆を『一同』とすることが可能となり、現実の力のみならず、『一同の観念』にもとづく新しい力をもつようになった」(勝俣鎮夫、『一揆』、1982、p89)

一揆は、現実の力を超えて「一同の観念」にもとづく新しい力をもつようになりました。今、矢野町がやろうとしている地域づくりに必要なのは、一揆、あるいは一揆の精神なのではないかと思えてきます。

一揆はある目的達成のために結成され、機能する集団でした。矢野町が進める地域づくりのなかでいろんな地域課題があります。それらを解決し、みなが幸福な暮らしを享受することを目的として、私たちもご先祖様にならって一揆をむすびましょう!



契約講の「掟覚帳」にある連判(江戸時代末期)



一味神水(契約講の直会、2008)


  


Posted by 矢野町交流広場 at 16:41Comments(0)矢野歴史考

2013年09月10日

矢野歴史講座10-一揆の作法

一揆を一揆として成立させるにはある特定の作法(手続き)が必要でした。それは一味同心のための儀式ともいえ、起請文(きしょうもん)の作成と一味神水(いちみしんすい)という行為がそれにあたります。それらは参加者全員が神社の境内に集まる寄合の場で行われます。作法はすべて神仏に対する信仰が大きく関わっています。この時代、神仏への信仰がことのよりどころとなっていました。

農民が一揆して何らかの訴えをおこそうとするとき、その訴えは「百姓等申状」という形式の文書にまとめられます。これは集まった農民全員の意志で書かれたもので、一揆の内容(訴え)をもっともよく示す文書です。

この訴えにうそ・いつわりのないことを東寺の大師八幡(弘法大師空海)をはじめ農民が日常信仰している神仏に誓い、そしてそれを破った場合は神罰・仏罰が下ることをうたった宣誓書のことを起請文といい、百姓等申状に添えられます。それによって訴えがより威力あるものへと強化されます。また、起請文は牛王宝印(ごおうほういん)という特別な紙の裏に書かれており、宣誓したことことがいっそう強調されることになります。

起請文に参加者全員が署判を加えたのち焼いて灰にし、それを水に混ぜ、その水(神水)を全員で分かち飲む行為を一味神水といいます。その神水を飲むことによって人々の団結は強調されることになります。なぜなら神水を飲む行為は神仏との誓約を意味し、神仏を介在することによって人と人との結合を作るからです。

一味同心したメンバーによる一揆の決定は「神慮」すなわち神の意志にもとづくとされ、その行動は神の意志を担っているとされました。したがって、一味同心の決定は万代の効力をもち国家権力を上回るとされたのです。神は国家より上ですからね。そういうところで一揆は覚悟をもって結成されたのでした。

では、ここで先に取り上げた矢野荘の惣荘一揆について、これら一揆の作法がいつどのように行われたのかみてみましょう。

惣荘一揆は永和3年(1377)1月14日、矢野荘の農民たちがことごとく逃散することから始まります。その前日1月13日、矢野荘の農民たちは大避神社(若狭野町下土井)に集まっていました。

当時、大避神社が矢野荘の拠点でした。矢野荘全体に関わる問題は、荘の中央に位置する大避神社において話し合われていました。かつて、秦氏の末裔といわれる寺田氏がまつりをとりおこない、寺田一族の守り神であった大避神社でしたが、寺田氏の没落後大避神社は、矢野荘に住む人々の鎮守へと姿を変えました。

もともとは大避神社では、僧侶による大般若経を転読(字句を略して経文を読む)する大般若講(簡単にいえば僧侶の勉強会)が開かれていました。しかし時とともに衰え、次第に回数が減りついに中断してしまいました。それにかわって農民(名主)たちの間で毎月13日に開かれる十三日講と呼ばれる寄合がおこなわれるようになりました。ここで、矢野荘の農民たちは荘内における運営や課題について話し合ってきました。

永和3年の1月13日も大避神社境内で十三日講が開かれ、惣荘一揆について話し合われ、起請文が作成され、一味神水が交わされたことでしょう。この惣荘一揆において、領主である東寺の対応に業を煮やした農民たちは、「7代にわたって祐尊を代官として認めない」と、何度も一味神水をしたという記録があります。長期にわたる一揆を戦い抜くためには、団結を強める一味神水を何度も繰り返す必要があったということですね。

惣荘一揆の後日談として、東寺は農民たちの分断を図ろうとします。惣荘一揆の張本人だとして農民名主の実長に対する不当な扱いに対して、実長が次のように反論しています。

「惣荘五十余名の名主数十人が一味同心に判をついて訴えを起こしたとき、どうして一人だけ反対することができようか、惣荘一揆にそむいたならばたちまち罰せられるから、本意ではないが判をついたのである」。

ここに、寄合をおこない、起請文を作成し、一味神水をしておこなわれる一揆というものの性格、いかに絶対的なものであったか、村の結びつきがいかに強いものであったか、をうかがい知ることができます。このような強い結びつきがあったからこそ、ご先祖様農民たちは一年以上も続いた惣荘一揆を戦い抜くことができたのでしょう。主体的な意志によって書かれた起請文は、自分たちの地位を向上させる武器となったのです。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 16:04Comments(2)矢野歴史考

2013年09月09日

矢野歴史講座9-「一揆」とは

中世という時代はよく一揆の時代といわれるようです。『相生市史』(第2巻、p.112)には、武士や僧侶から一般の農民にいたるまであらゆる階層の人々が、時と場合に応じて、さまざまな目的で一揆をむすんだ、とあります。

「一揆をむすぶ」? 「一揆」とはそもそもどういうことをいうのでしょうか。

『相生市史』によると、一揆とは揆(軌)を一にすること、すなわち心を同じくして(一味同心)、ともに行動することをいいます。たとえばある人物の支配を受け入れないという場合、あるいは共同で訴えを起こそうとする場合、これらのまとまった行動はいずれも一揆と呼ばれます。

そして、さらに次のように書かれています。

「一揆をおこなうためには共通の目的が必要である。皆に共通する目的がなければ、いかなる一揆もおこりえない。共通の目的をもつためには、共通の条件が必要である。その共通の条件としては、農民の生活をとりまくさまざまな条件―支配・行事・天候・災害などをあげることができるだろう。このような共通の条件にねざした土一揆(農民たちがおこなう一揆:筆者記)は、なんら特別な出来事ではなく、むしろ人々の日常生活の延長のうえにおこなわれたものだったのである」。

「矢野荘においても、ちょうど南北朝時代にはいったころから、いくたびもの一揆がむすばれたことが知られる。(中略)矢野荘の人々は、自分たちの力を自覚し、自分たちの手で生活をまもろうとしたにちがいない。いくたびもの一揆は、こうした人々の努力のあらわれなのである」。


そうか、「一揆」とは本来的にはどちらかというと、その「行為」そのものより「状態」のことをいうのか。共通の目的を達成するために、軌を一にすること、心を同じくすることが大事で、それを一揆と呼びました。さまざまな研究によると、一揆は中世末に畿内周辺に成立した組的結合のムラ(たぶん惣村のこと)の呼称に用いられたり、そこで行われる寄合のことを一揆と呼んだりすることからも、わかります。一揆には特定の手続き(作法・儀式)が必要でした。どんな儀式が必要だったのか、次回それをみていきます。

ところで、「共通の目的をもつためには共通の条件が必要である」と書かれています。集落や地域ということで考えてみると、この頃の時代は、そこに住む人が皆同じ生活をしていました。すなわち、皆が同じように田んぼを作りそれを糧に、助け合いながら(「結(ゆい)」)生きてきた。そのことが一番大きな共通の条件なのでしょうね。

しかし、現在に置き換えてみると、人それぞれいろんな生活の仕方があって、共通の条件というものが数少なくなってきています。地域の課題を解決する(共通の目的の達成)には、地域においていかに共通の条件に類するもの(共通感情とか)を育てる、あるいは作り出すことができるかがキーになっていると思います。

こ  
タグ :一揆


Posted by 矢野町交流広場 at 14:00Comments(0)矢野歴史考

2013年09月06日

矢野歴史講座8-惣荘一揆

矢野歴史講座前3回は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて成立し、自治機能が高度に発達した「惣」あるいは「惣村」という村落組織を概観しました。私たちご先祖様が生きた「矢野荘」の数々の村落も当然「惣村」であったわけです。

今回シリーズは、惣村のなかで自分たちの権利・生活を守る抗議行動として行われた「一揆」について取り上げたいと思います。荘園を範囲とし矢野荘でもっともはげしい行動がとられた一揆が、永和3年(1377)に起こった「惣荘一揆」でした(『相生市史第2巻』pp110‐132)。

惣荘一揆は、矢野荘の領主である東寺の代官 祐尊に対する抗議行動です。祐尊は20年にわたり矢野荘の農民に対し、規定以上に人夫としてこき使い、年貢を取り立てながら領主には未納として報告するなど、私利を肥やす行為を繰り返し行ってきました。それに堪忍袋の緒が切れたご先祖様農民たちは、圧倒的な強さをもつ守護勢力を味方につけている祐尊に対し、「逃散(ちょうさん)」という手段によって対抗しました。

逃散とは、領主に対して不満をもつ農民たちが集団で耕作を放棄し、他所へ身を隠すことをいいます。今でいうとストライキのようなものでしょうか。惣荘一揆は、逃散が1月14日からはじまりましたが、一応東寺(寺家)が新たな代官を立てることを約束したことによって、農民たちは2か月半経過して帰住しました。なんとか春の耕作には間に合うことになり、東寺としても農民としても一年分の収穫をふいにすることは免れました。

しかし、その後も祐尊は矢野荘にとどまり、自分に従おうとしない農民たちを守護の力を借りて弾圧しようとしました。12月2日、農民たちが小山田(若狭野町若狭野)で寄合を行っていたところ、祐尊は守護の浦上氏一族と数十人の悪党を率いて農民たちに襲いかかりました。農民たちは、自分の所務にしたがえという祐尊の求めに応じなかったためことごとく寵舎されました。その人数は35人、1,2反の百姓は数も知れないほどで、寵舎の四方にはかがり火がたかれ、浦上らの家来数十人が警固していたといいます。

祐尊は年貢よりもまず、自分を窮地におとしいれた農民たちに復讐しようとしたのです。それでも農民たちは年貢米を所縁の者や隣荘に預け、給主と代官(祐尊)を交代してくれるならば、一粒の未進なく年貢を納めると寺家に申し入れました。それを受け寺家では評定が開かれ、今年分の年貢については農民が直接京都まで運ぶこと、所務に対する祐尊の干渉を除くことが、全員一致で決定されました(12月12日)。ここに農民たちと祐尊との対立は、ご先祖様農民たちの勝利で終わります。

ただ、その後も現地(矢野荘)では混乱が収まらず、祐尊の下人と浦上の使者が農民に水による拷問を加え年貢を責め取っており、寺家は浦上に働きかけ、祐尊に対しても干渉をやめるよう再度命じています。しかし、翌年になっても事は収まらず、農民たちが耕作かなわず逃散したことを訴えると、寺家は守護に訴え、抗議してきた浦上に対しては断りを入れ、3月12日、祐尊の所務をとどめ新たな代官を任命することを決定します。こうして矢野荘は1年以上かかって、ようやく落ちつきを取り戻すことになりました。

ここに矢野荘で起きた惣荘一揆のあらましをみてきました。このように逃散など、単に武装蜂起をすることだけを一揆というのではなく、一揆にはいろんなやり方があります。では、そもそも「一揆」とは何なのでしょうか。次回、一揆の本質に迫っていきます。

こ  
タグ :一揆


Posted by 矢野町交流広場 at 15:33Comments(0)矢野歴史考

2013年08月08日

矢野歴史講座7-「惣」について3

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、近畿地方やその周辺部から農民たちは自らの手で「惣」あるいは「惣村」と呼ばれる自立的かつ自治的な村をつくりました。それが次第に各地方に広がっていきます。当然、矢野荘のここ矢野地域にも惣が作られていきました。

農民が生活する上で必然的なつながりによって形成されるムラ(集落)を自然村といいますが、そうすると「惣」は自然村ということになりますね。そして、場合によっては惣よりも広い範囲で惣同士が結びついていきます。これを「郷村(ごうそん)」といいます。その範囲が荘園や公領(郷や保など)の範囲とするものを「惣荘(そうしょう)」「惣郷(そうごう)」といいます。(なるほど、矢野荘の矢野・若狭野エリアを惣荘と呼ぶのはそこからきているのか)

ここに、いちばん身近な惣を基体とし、問題によってはより広い範囲で農民たちは結合し問題解決を図っていこうとした様子をうかがい知ることができます。

何はともあれ、単位集落の自律(自治)を基本としています。自律した単位集落が結合することによってはじめて力を発揮することになるでしょう。共同体における自律・自治の核心に「寄合」があると考えています。

ここで、現在の矢野町と若狭野町の単位集落から惣、郷村、惣荘のイメージをちょっとまとめてみました。現在の単位集落と当時の惣は完全にイコールではないと思いますが、とりあえずイメージとして。



私たちのご先祖様は、それぞれの惣を基本として、場合によっては適当な範囲で結合し、そこで寄合を繰り返しながら方策を考え、自分たちの生活を守り生きてきたんだろうなと想像します。

矢野荘(矢野・若狭野エリアの「惣荘」)で、問題解決のためのもっとも大きな行動だったのが、永和3年(1377)に起きた惣荘一揆ではないでしょうか。次回は、「惣」の特徴としてあげられる一揆に焦点をあて、一揆とは一体どういうもので、ご先祖様はどのように結合していったのか、見ていきたいと思います。

こ  
タグ :惣村荘園


Posted by 矢野町交流広場 at 13:55Comments(0)矢野歴史考

2013年08月07日

矢野歴史講座6-「惣」について2

今日は、自律した中世の村「惣」の自治についてみていきましょう。

その前に「惣」の人的構成について述べておくと、「惣」は指導者として乙名(おとな)、沙汰人(さたにん)がおり、地下人(じげにん)と呼ばれる自立した一般百姓もまた構成員としていました。また、年齢的なところで乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅう)といいました。

乙名は有力農民(名主)や多くの耕地を有する者など有力者によって複数人で構成され、惣の運営・調整・交渉などを行いました。つまり、村の執行役員ってとこでしょうか。中には守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れ、地侍と呼びました。乙名はもともと、村落の祭祀を執り行う宮座(みやざ)の代表者を指していましたが、惣の結合は宮座での儀式を中心に行われていたので(すなわち惣ほぼイコール宮座)、惣の指導者を意味するようになりました。

沙汰人はもともと荘園領主や荘官の代理人として、命令や判決を現地で執行する者を指しましたが、荘園の弱体化と惣の発達により惣との結びつきを強めて惣の指導者になる者もいました。

血気盛んで意欲や体力のある若衆は、惣の警察・自衛・消防・普請・耕作など共同体の労働の中心を担いました。ここで着目することは、惣という村落共同体のなかで若者には若者の役割がきちんとあり、村の一員として村に関わってきたということです。それがそのまま村落の維持・継続につながってきました。今日における地域の持続を考えるとき、いかに若者が地域に関わることができるか、そういう場を創出できるかがポイントだと思います。

それでは惣の自治について、主な特徴として以下の6つを上げてみました。

①協議機関・・・惣の内部は、平等意識と連帯意識によって結合していました。惣で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣の構成員が出席する「寄合(よりあい)」という会議を開いて独自の決定を行っていました。ぼくは、何か問題があったら人が寄り集まって協議する、この寄合という行為が村落自治の根幹だと考えています。

②規約制定・・・惣は村の結合を維持していくため、寄合で「惣掟(そうおきて)」という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣自らが追放刑、財産没収、身体刑、死刑などを執行する「自検断(じけんだん)」が行われることもありました。検断は領主や地頭など通常支配する側の重要な権限ですが、支配される側の惣自身が行うことに大きな特徴があり、そこに意味の重さがあります。

③共有財産・・・惣は生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣の住民なら誰もが利用できる「入会地(いりあいち)」を設定しました。(以前近代的所有の考え方で「総有」と「共有」の違いをどこかで話したでしょうか。なかったらその機会をまた)

④共同作業・・・入会地の管理からため池・水路や道路の普請(修築)、灌漑用水の配分調整など、日常生活・生産に必要な事柄を主体的に取り組んでいきました。

⑤年貢納入・・・年貢はもともと領主・地頭が徴収することとされていましたが、惣が責任をもって一括して年貢納入を請け負いました。これを地下請(じげうけ)といいます。地下請の制度は、惣が消滅し近世村落が成立した江戸時代以降も継承されていきます。

⑥抗議行動・・・惣が支配者や対立する近隣の惣への抗議・要求活動として「一揆」を結成しました。一揆は一見暴力行為として捉えられがちですが、もともとは心を一つにするという意味をもち、参加者が同一の目的のもとで相互に対等の立場に立って強く連帯することが一揆でした。惣による一揆を土一揆(つちいっき)といい、それは生活困窮からというよりは自治意識の高まった惣が主張すべき自分たちの権利を要求するために発生したと考えられます。しかし、戦国時代に入り戦国大名による一円支配が強化されるに従って、惣は自治的性格が薄まっていき、土一揆の発生は次第に減少していきました。

大事なことは、現代における地域自治を考えるにあたり、これら惣自治の特徴(自治の現れ)から何を学び、どこに意義を見出すかです。これ以降は、これら惣自治の特徴のいくつかについてさらに言及し、現代の地域自治へつながるご先祖さまからの声を探っていきたいと思います。

次回は、現在の矢野地域から矢野荘内の惣の地割イメージをちょっと作ってみましょう。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 14:43Comments(2)矢野歴史考

2013年08月05日

矢野歴史講座5-「惣」について1

「矢野歴史講座」。なかなか時間が取れず、昨年9月からのご無沙汰でした。

前回は、相生が中世「矢野荘」の時代、暗躍した「悪党」についてお話しました。悪党は、一般的には自分の権利を守るため体制に不満をもつ者が立ち上がり時代を回した人たちと、ややヒーロ―的に捉えられがちですが、実はその裏には刈田狼藉など勝手な暴力的反社会的行為により苦しめられた農民たちがいたことを述べました。

しかし、農民たちは結束して自分たちの生活を守るため自衛的に立ち上がります。この基盤となったのが「惣(そう)」あるいは「惣村(そうそん)」といわれる村組織でした。「惣」「惣村」とは、中世日本における農民の、有力名主を中心に団結した地縁共同体的な自治組織です。実は現代の日本の農村の約4分の3がこの頃形成され、「惣」をルーツにしているといわれています。矢野荘の矢野・若狭野エリアは「惣荘(そうしょう)」と呼ばれていました。ということで、今回は「惣」の秘密について探っていきます。

まずは「惣」という字。なぜ「惣」なのか。それは、地縁的な範囲でそこに住む農民のすべて(惣て)が構成員になっているところからきています。そして、その代表が、今風にいえば「惣代」ですが、現在使っている「村の総代(自治会長)さん」の総代はここからきているようです。このような地縁結合による自然発生的な村を、外からの行政的な区割りによって作られた行政村(ぎょうせいそん)に対して自然村(しぜんそん)といいます。

そもそも、なぜ矢野町の歴史講座で「惣」を取り上げるのでしょう。今矢野町は日本の社会的な動きの中で、自律した地域、すなわち地域自治の体現目指してやっていこうとしています。そういうなか、村落として自立し自治的運営をこの時代おこなってきた「惣」に学ぶべきこと、ヒントとなることがあるのではないかと考えたからです。しかも、それは他の誰でもない、「東寺百合文書」によって自分たちのご先祖様から学ぶことができるのです。これはすごいことだと思いませんか。ただ、当時と今と社会背景が全然違います。しかし、自律した地域、地域自治の実現のために、その本質というか普遍的なものを抽出できるのではないかと思っています。

もう少し詳しく、「惣」が発達した背景についてみていくと、鎌倉時代後期から南北朝にかけて荘園制が弱まり、農民の主体的農業生産が可能となりました。そこに、農業生産力が向上して作人が名主化するような自立した農民が増加します。そういう状況のなかで、領主や国人の不当で非合理な要求に対抗しなければならない、悪党や戦乱期の略奪から自衛しなければならないという事情がありました。

歴史が教える荘園制の弱体化から主体性ある農民への移行は、行政の財政力が弱まり、そこから自助・共助や地域主権といわれる今日に通じるところがあるように思います。そして、「惣」の発達には農業生産力が向上して自立した農民がキーであったように、地域自治の実現には地域の経済的自立が重要な要素であると考えています。地域としていかに経済的自立を図るかがポイントです。

では、「惣」は実際にどういう自治運営を行ってきたのでしょうか。次回に続く。

こ  
タグ :地域自治


Posted by 矢野町交流広場 at 14:35Comments(0)矢野歴史考

2012年09月14日

矢野歴史講座4-「悪党」について

今回は、「悪党」について勉強しましょう。

『相生市史』によれば、悪党とは、大まかな定義として

「鎌倉時代中期以降の政治の行き詰まりと社会構造の変化が生みだした、新しい政治と社会を目指す者たちの動きであり、鎌倉時代中後期特有の歴史的産物」(『相生市史第1巻』pp.613-614)

としています。「新しい政治と社会を目指す者たちの動き」、なんかかっこよく書いてありますね。果たしてそうなのでしょうか。

『播磨国風土記』に次いで古い播磨の地誌に『峰相記』というものがあります。南北朝の時代に書かれたもので、当時の悪党の様子がこと細かく書かれています。それによると、「播磨では殊に、悪党が大勢、一斉に立ち上がって実力行使の挙にでるという評判でございます」と、ここ播磨地域は悪党が盛んであったと認識されていたようです。

では、悪党はどういう行動をとったのでしょうか。『峰相記』によれば、

「あちらこちらで乱暴をし、海辺では、海賊をし、急に押し寄せて物を取り、強盗、山賊、追剝ぎと、絶えることは無く、(世間の人とは)類を異にするというか、とても普通とはいえない様子で、人として、ふみ行う道からはずれています」

「まったく、約束を承知するなどの、正しいことはしません。博打や博奕が好きで、かくれて物を盗むのを仕事としています」

「しきりに、奪い取り、乱暴をし、(勝手に)田(の稲)を刈り、畠(の収穫物)を刈り、攻め入り、奪い取り、結局は、(無事に)残った荘園が、あるはずだとも見えないのです」

『峰相記』は、おそらく体制側の人間によって書かれたものであろうけれども、それにしても酷いものですね。幕府は何度か悪党の鎮静を図ろうとしたようですが、あまり効果はなかったようです。

では、悪党にどういう人たちがいたかということですが、『兵庫県史』には次のようにあります。

「その主力は特定の階級や階層ではない。地頭御家人であり、荘園の雑掌・代官あり、問丸・借上あり、浮浪人・犯罪者あり、その構成は雑多である。(中略)基本的には地方領主・地主・商人・運送業者・高利貸・代官請負業者の利害を中心に行動しているので、最大の被害者は農民ということになる。というのは、刈田狼藉から殺人、合戦まで、ことごとく農民が犠牲に供されるからである」(『兵庫県史第2巻』p.537)

要するに、悪党とは現社会に、すなわち当代政権を担っている鎌倉幕府に対し不満をもつ反体制的群像なのです。そして、悪党の反社会的で反道徳的行為はその不満を昇華するための行為だったと位置づけられるでしょう。

ここで見落としてはならないのは、悪党の行為によって最も犠牲を払ったのは、田畑を好き勝手荒らされた農民だということです。すなわち矢野みなさんの御先祖様だということですね。悪党というと、アウトサイダー的に体制側と戦った人たちと捉えられヒーローのように扱われますが、決して称賛されるべきものではないとぼくは思います。

ご先祖様もやられっぱなしではありません。次第に結束を固め、「惣」という自衛的な村組織を形成し戦うようになります。郷村制(ごうそんせい)の始まりです。ようやくここまでたどり着きました。実は「惣」という村組織、ここに持って来たかったのです。「惣」とはどういうものか、次回以降見ていきましょう。

悪党にもどって、『相生市史』には、
「(悪党は)たいへんな乱暴狼藉をはたらいたわけだが、その内容は、荘園領主に納めるべき年貢米を横領したばかりでなく、百姓個々人に対しても乱暴を加え、その結果百姓ともするどく対立するにいたった。百姓との対立は、悪党の多くに共通する」(『相生市史第1巻』p.615)と書かれ、

「『人目をはばかって恥を恐れる気色さらになし』といわれる悪党たちの倫理的な退廃がじゅうぶんに克服されないかぎり、政治勢力としての悪党の大結集が困難」(同上p.621)と言いきっています。

最後に、「われは播磨の悪党なり」と宣言した矢野荘の大悪党、寺田法然はどうなったか述べておきましょう。法然は一族郎党と近隣の地頭御家人らを語らって、矢野荘の他の荘園(別名)にも押し入り、年貢米をはじめ手当たり次第奪い取り、殺害、強盗、放火などの数々の悪行を何度も働きました。東寺は幕府に訴えますが、幕府は有効な処置を取ることができません。

そこで、当てにならない幕府を尻目に、ご先祖様農民と東寺の寺家使の結束により数回の合戦のち寺田悪党を撃退しました。こうして寺田氏は没落し、西播磨の開拓から始まった秦氏の相生における歴史が幕を閉じます。

矢野歴史講座いよいよ佳境に入って来ました。ここで少し休憩して再び始めます。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 13:42Comments(2)矢野歴史考

2012年09月13日

矢野歴史講座3-矢野荘のおこり

矢野歴史講座、今回は「矢野荘のおこり」です。

平安時代後半、赤穂郡の郡司(この相生・赤穂辺りの役人・権力者。今でいうと相生あるいは赤穂市長でしょうか)であった秦為辰(はたのためとき)が、その地位を利用し、その地の農民を動員して現在の陸・那波・佐方あたりを開拓させました。これが「久富保(ひさとみのほ)」です。

為辰はこの久富保を貴族に守ってもらおうと、国司(今でいうと県知事でしょうか)播磨守(はりまのかみ)、藤原顕季(ふじわらのあきすえ)に寄進します。

その後、顕季の孫で鳥羽上皇の寵姫(ちょうき:君主が寵愛する侍女)美福門院が、1136年荘園を申請し翌年「矢野荘」として承認されました。このとき、申請された荘園の範囲は、開拓された久富保だけでなくもとからあった矢野・若狭野の地含めて申請されため、矢野荘は大きな荘園(兵庫県で2番目の大きさ)になりました。これがほぼ今の相生市になるということです。

ということで矢野荘は大きく二つに分けられます。一つは矢野・若狭野エリアでそこを「惣荘(そうしょう)」と呼びます。もう一つは新たに開拓された那波・佐方エリアで「浦分(うらぶん)」と呼びます。

また、矢野荘はそこで財としてとれる米の用途からも二つに分けられます。例名(れいみょう)と別名(べつみょう)です。惣荘の6割と浦分全部が例名として領家(美福門院)の財へ、惣荘の残り4割が別名として歓喜光院の建設費用に回されました。要は、別名は今でいう特別会計ですね。矢野荘はこのあと変遷があって最終的には、例名が東寺に、別名が南禅寺のものとなります。

問題が発生します。時代は鎌倉幕府の時代となり全国に守護・地頭が配置されます。矢野荘にも鎌倉御家人の海老名氏が地頭として送り込まれてきます。そうすると、俺にも荘園の分け前を寄こせ、ということで争いが起きます。

ここでちょっと矢野荘(例名部分)に関わる職を確認しておきましょう。本家職・領家職が美福門院から最終的に東寺に、矢野荘現地では、預所職は領家からの代官、公文職が開拓者の子孫寺田氏、地頭職が海老名氏となります。

そうすると、現地に三人の権利者が錯綜し混乱します。預職の代官と地頭職海老名氏で取り分の争いがあって、最終的に矢野荘(例名)を東西に分け、領家の支配する土地(西方)と地頭の支配する土地(東方)に区分します。これを下地中分(したじちゅうぶん)といいます。

そこで、割に合わないのが公文職の寺田氏です。下地中分によって領家である東寺は寺田氏の公文職を解任し、寺田氏は個人の土地である重藤名も1/4を失うことになります。寺田氏は秦氏の末裔といわれており、そうだとすると、もとはといえば先祖の秦為辰が開拓した久富保から始まり、権利を確保するために寄進した矢野荘なのに、自分の持つべき権利が一切奪われてしまったのです。

そこで、寺田氏、特に寺田法然は自分の権利を主張するために不満をぶつけ、打ち壊しや放火、狼藉など反社会的行為を次々に起こしていきます。これが「悪党」です。

ということで、次回は悪党についてです。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 13:55Comments(0)矢野歴史考

2012年09月12日

矢野歴史講座2-荘園とは

3月に矢野で開催した「三濃山シンポジウム」松本恵司先生の講演の中で、この辺りは矢野荘(やののしょう)という荘園の一部で、矢野荘全体としては今の相生市とほぼ同じなんだよということでした。かなり大きな荘園ですね。兵庫県で2番目に大きな荘園だそうです。

この矢野荘は学術的な分野で全国的に有名なんですね。というのも、矢野荘は最終的に京都の東寺(東寺は嵯峨天皇により弘法大師に下賜され、真言密教の根本道場になる。ここにも弘法大師が顔を出します)の荘園になりますが、その頃矢野荘で起きた出来事などが記された古文書が残っているからなんですね。「東寺百合文書」といいます。そこから中世の荘園の様子や人々の生活・信仰の様子がわかります。

つまり、日本の中世がどんなだったかは、「東寺百合文書」によって矢野荘の様子、すなわち自分たちご先祖様の事実な事柄からわかるということなんです。これ、すごいことだと思いません? 矢野荘が日本の中世史を代表するのですよ。ということで、「矢野荘」というブランドは今後の矢野の地域づくりにおいて強力な武器になり得ると思います。

で、今日は少し原点にさかのぼって、「荘園」とは何かについて話しておきましょう。


荘園発生の背景
645年大化の改新により律令政治が始まります。おおざっぱにいえば法による政治です。そして、公地公民制度(土地も人も国のもの)、班田収授法により口分田が国から個人に分け与えられます。

しかし、時代が進むと、口分田が荒廃し、また人口増加で口分田が足らなくなります。そこで、為政者は723年に三世一身の法(開墾した土地は3代に限り私有地)を出しますが効果がないので、743年に墾田永年私財法を出し、墾田は永久に私有であることを認めました。

荘園とは
しかし、私有地には税が掛かりますので、開墾者はなんとかそれを逃れようとします。そうしてできたのが荘園です。税がかからないのは身分の高い貴族か寺院なので、そこを本家として開墾した土地を彼らに寄進し、守ってもらおうとしました。それが寄進系の荘園です。この場合、開墾者は主に地方の権力者になります。矢野荘はこれになります。一方、開墾者が貴族や寺院自身なのを自墾地系荘園といいます。

荘園には、不輸・不入の権といった特権ができます。不輸の権:税を納めないでよい権利。不入の権:国司の検田使が荘園に来るのを拒否する権利。

荘園の複雑な関与者
しかし、このように貴族や寺院に寄進することによって、一つの荘園に対して関与する人間(権利者)がたくさん出来てきます。以下のとおり。

本家職:名義上の所有者。領家職を指名
領家職:現地を管理する預所を指名
預所職:現地管理する代官
公文職:荘園を差配する現地有力者(開墾者)
地頭職:鎌倉幕府が送り込んだ管理者
名主職:実際の田畑の管理者
作人:名主のもとで田畑の耕作者

結局、一つの荘園に権利者が錯綜し、特に現地での権利者(預所職、公文職、地頭職)がトラブルの原因となります。


今日はここまで。明日は「矢野荘のおこり」です。



  
タグ :荘園矢野荘


Posted by 矢野町交流広場 at 13:31Comments(0)矢野歴史考

2012年09月11日

矢野歴史講座1-前書き

今年始めに、「矢野歴史考」ということで三濃山のことや泰河勝と矢野との関わり、地名のことなど古代の矢野について書いてきました。

今回は中世の頃の矢野、全国的にも有名な「矢野荘」のことについてシリーズでちょっと書いてみたいと思います。特に私たちのご先祖様はどのように生きてきたか、当時の矢野に暮らす人々に焦点を当てて書いてみたいと思います。

というのも、この頃の村落は惣村といって住民自治がしっかりした時代でした。これから自律した地域づくりを目指す矢野にとって、ご先祖様の頃の村落の仕組みや彼らの生き様は参考になると考えるからです。そこから何が見えてくるか、楽しみです。今回書こうとしている矢野歴史講座「矢野荘」シリーズは、今年4月から6月の勉強会で取り上げた内容です。

と、その前にこれまでのおさらいということで、これまでに取り上げた、言い伝えや伝承・記録などで古代の矢野に関わる人物を整理しておきましょう。


恵便・恵聡
朝鮮半島から仏教を伝えるためにやってきた僧侶で、奥矢野に隠棲し羅漢石仏を彫ったという伝承が残る。矢野に最初に登場する歴史上の人物である。

泰河勝
西播磨一帯の開拓に貢献した秦氏の当主で、聖徳太子の側近。河勝をまつる大避神社が西播磨一円にある。能下にある三本卒塔婆伝説は有名。

柿本人麻呂
矢野神山を詠んだ万葉歌。森の磐座神社に歌碑

弘法大師
三濃山を霊地として山岳信仰を広めようとした言い伝え

秦内麻呂
赤穂郡司。三濃山求福教寺を創建(864)。千手観音の脇士に聖徳太子と弘法大師が奉られている

源義家
義家の保護で三濃山が最も栄え、三濃千坊といわれる。しかし、その後保元・平治の乱(1156,1159)で伽藍消失し、三濃山荒廃


このように矢野(奥矢野)は、古代において歴史的な人物にまつわる伝承が数多く残されており、歴史的な由縁のある土地柄であり、矢野荘しいては相生市の原点ともいえます。その頂点に三濃山があります。

また、秦氏、秦河勝、秦内麻呂、このあと出てきますが、矢野荘おこりの基礎となった久富保を開拓した秦為辰というように古代から中世にかけて相生を形作ってきたのは秦氏一族というのがわかります。

先走ってもう少し言ってしまえば、秦氏の末裔で悪党になった寺田法然の没落によって、秦氏は相生の表舞台から去っていきます。

とにかく、矢野は、古代から中世にかけて歴史的な人物が何人も顔を出す歴史的由縁のある地域だということを覚えておきましょう。

とりあえず今日はここまで。


こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 13:43Comments(0)矢野歴史考

2012年02月01日

三濃山の山王神社と天台宗

先日、三濃山にかつて「山王神社」があって(現在のは篤信家が新たに建立)、その本尊が大山咋神で鉱山に関係があるということを述べました。

後日、ある方からいろいろ教えていただいて、山王神社は天台宗と関わりが深いことが分かりました。

山王とは、比叡山に鎮座していた日吉神(ひえのかみ)の別名で大山咋神のことだそうです。天台宗の開祖・最澄が比叡山を開くにあたり、その麓に祀られていた大山咋神ほかを勧請して、日吉山王と称し、その後日吉社の神を天台宗の護法神とする考え方が広まったそうです。

そして、この神道を「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」と呼び、これを仏教神道、あるいは天台密教の影響下で成立したので天台神道ともいうそうです。

三濃山の山王神社は山王権現ともいうのですが、なぜ権現なのか。当時の神仏習合と本地垂迹説(日本の神は仏が仮の姿を現したものという考え方)に乗って、最澄が釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来の三尊が天台の守護と人々の救済のために飛来したとし、釈迦如来を大比叡神(大宮権現)の本体、薬師如来を小比叡神(二宮権現)の本体、阿弥陀如来を宇佐宮(聖真子権現)の本体としたことからのようです。

いずれにせよ、日吉の神は天台教学と習合しながら山王日吉神(山王一実神道)として形成されていったようです。しかし、その山王一実神道も明治の神仏分離令によって強制的に廃絶させられました。


それにしても、三濃山は天台宗も絡んでいたんですね。空海(弘法大師)が三濃山に真言密教の法窟を開いて、最澄(伝教大師)の天台密教も関わりがあったとは。これってすごくないんですかね。

そういえば、聖徳太子は法華経の注釈書『法華経義疏』を書きましたが、法華経は天台宗の根本経典ですから、天台宗と聖徳太子は関わりが深いですよね。とすると、求福教寺観音堂にある脇士は、弘法大師像と聖徳大師像ですから真言と天台、両密教があるということですか。これってすごくないですか。恐るべし三濃山。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 19:28Comments(5)矢野歴史考