2012年01月31日

地名「矢野」と「若狭野」

「矢野」という地名は、秦河勝が鷹取峠から北方へ矢を放ったところ、それが突き刺さった地(野)であるから「矢野」とついたという伝説がありますが、それはあくまでも伝説なので実際はどうなのでしょう。

『播磨国風土記』は赤穂郡の条が欠落しているので、残念ながらそこからは赤穂郡の「やの」についてわかりません。しかし、平安時代の中ごろに書かれた百科辞典ともいえる『和名類聚抄』(略して『和名抄』ともいう)に、赤穂郡には坂越、八野、大原、筑磨、野磨、周勢、高田、飛鳥の8郷があったことが記されており、ここに初めて文字として赤穂郡の「やの(八野)」を確認することができます。当初「矢野」は「八野」と表記されていたようですね。

他の郡で、奈良時代に書かれた『播磨国風土記』と平安中期の『和名抄』を比べても郷(里)にそれほど変化はないということなので、赤穂郡八野里も奈良時代から存在したことは十分考えられます。そして、八野郷の範囲は、今の矢野・若狭野あたりであろうということです。つまり、もともとは矢野と若狭野含めて八野だったわけです。

むかし、『相生ライフ』に石田氏が連載された「地名をほる」という記事があります。「矢野」という地名の回を見ると、「八野」が「矢野」と表記されだしたのは1137年、秦為辰が矢野荘立券案を提出して荘園として認められた平安時代末期以後のことだそうです。

矢野荘は領域的に「惣荘(そうしょう)」と「浦分(うらぶん)」に分けることができます。「惣荘」は元からあった田畑や宅地のある地域で、これが古代の八野郷、現在の矢野・若狭野地域になります。「浦分」は新たに開拓された地域で、今でいう佐方・那波地域です。

石田氏によると、平安末期から江戸時代末期まで、矢野荘(惣荘)の北部地域を「上矢野」、南部地域を「下矢野」と称したそうです。(明治になって)北部の上矢野を「矢野村」と改称したため、南部の下矢野は「若狭野(村)」と称するようになったとあります。

「地名をほる」で「若狭野」の回を見てみますと、若狭野の地名が出てくるのは、1299年の『例名実検取帳案』に「十一条 若狭野」として重藤名(新たな開拓地)の畠のあることを書いたことがもっとも古いとあります。

そして、若狭野の「ワカ」の地名語源に動詞ワカル(分)の語幹と形容詞ワカイ(若)の語幹をもち、「サ」は接尾語であるので、これらのことから若狭野の地名語源は八野郷を荘園とする過程のなかで「比較的新しく分かれて出来た地域」という意味での「ワカサノ」ではなかろうかと推測しています。

つまり、若狭野は八野郷という領域のなかに新しく生まれた地域、「若い野」だったんですね。



寒いね


こ  


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2012年01月27日

三濃山にまつわる偉人たち3-弘法大師と聖徳太子

三濃山の求福教寺観音堂にまつられている本尊は、千手観世音菩薩像です。千手観音、三濃山の人たちはそこでの現世や来世の利益を願って信仰したのでしょう。

そして、世手観音の両脇には脇士として、向かって右に金龍に乗った弘法大師像、左に聖徳太子像がまつられています。と、『相生市史』には記述されていますが、ある方によると、金龍に乗った弘法大師像というのは、いわゆる立体の仏像ではなくて掛け軸になった画だそうです。そして、その画は金龍に乗っているのは弘法大師ではなくて、どうも観音菩薩でそれを子どもの弘法大師が見ている図だそうです。写真を撮られていました。


弘法大師に関して、この地に残る伝説に次のようなものがあります。

「弘法大師が三濃山を霊地と考えて、この鍛冶屋谷に百の谷があれば真言宗の本山にしようとした。それを嫌った村人は鞍居にある一つの谷を隠していわなかったので、三濃山は高野山のように栄えなかった」

ただ、これと同じような伝説はどうも他の土地にもあるようです。

弘法大師本人が実際に三濃山に来たかどうかはわかりませんが、この辺のお寺はもともとは真言宗であったと聞きますし、弘法大師に関わる高野聖がきて広めていったとか、そういうことはあったのでしょう。

では、なぜ弘法大師あるいは高野聖がこの地に来たのか。弘法大師は鉱山師であったという説もあります。三濃山の鉱脈に引き寄せられてきたのかもしれません。

聖徳太子については、『相生市史』によると、聖徳太子は大工とか左官、鍛冶屋などの職人によって信仰されており、近隣の南光町には奈良時代末のタタラ遺跡が発見されていて、三濃山に鍛冶屋谷という地名もあって、千種鋼につながるタタラに関係した人がいた結果、聖徳太子像がまつられたのではないだろうか、と推測しています。

弘法大師、聖徳太子ともに「鉱山としての三濃山」につなげられるところが面白いところです。

この地(三濃山周辺)の大師信仰、太子信仰のいわれははっきりしませんが、いずれにせよ、この辺りの地には弘法大師や聖徳太子にまつわる伝説が数多く残っており、彼らへの信仰がいかに厚い土地柄であったかがわかります。その二人を脇士とする観音堂がこの辺りでもっとも高い三濃山あることは象徴的です。


『相生市史』に次のような記述がありました。

大師信仰により弘法大師がまつられた。大師とは弘法大師を指し、大いなる貴い神という意味で「遊行のマレビト」であると。大師信仰とは、このようなマレビトの訪問を期待し、これを厚くもてなすことによって、自分たちの生活を幸せにしようとする考えであると。

また、『相生市史』で、同じ矢野町の北東部に位置し、三濃山より早く昭和初期に廃村になった「黒蔵(くろぞう)村」について記載しているところで、

「人がいないので淋しいものであった。こんな淋しい僻地であるために、流浪の旅人などがくると、歓待して泊め、外部の世の中のことを聞いたであろう。おまんという旅人がこの地に居着き、ここで死んだ。村人たちは故郷に帰れず他郷で死んだあわれなおまんの霊を供養するため、おまんのお堂を建てたという」

似たような事情で供養塔が森と能下の村境にも立っているそうです。お堂や供養塔を立てまつることによって、賽の神として村を護ってくれとの願いが込められているそうです。

これらの事柄に触れて、今後の矢野町の地域づくりの方向性をみる思いです。すなわち、地域外の人たちを「心のふるさと矢野」にお呼びしおもてなしをすることが、矢野の活性化になり、しいては矢野の再構築につながっていくのではないかと。


余談ですが、ぼくは聖徳太子と弘法大師になんか親しみがあるんですよね。私が住んでいるのは聖徳太子をまつった斑鳩寺(おたいっさん)のある太子町鵤ですし、ぼくの名前は「弘一」で偉い先生が弘法大師から一字もらって付けたと家族から小学生の時に聞きました。



1月25日矢野に雪が降る。矢野町交流広場の窓から
(今日はいいお天気ですけどね)


こ  


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2012年01月26日

泰河勝と秦氏と大避神社

昨日の秦河勝三本卒塔婆伝説をもう少し考えてみましょう。

三本卒塔婆伝説では河勝が三濃山に狩りに来ていて伝説の事件に遭遇しますが、実は河勝は狩りではなくて鉱脈を探しに来ていたのだという人もいます。

泰河勝が本当に赤穂・相生に来て矢野の地に足を踏み入れたかどうかは定かではありません。でも、煙のないところに伝説は起きませんので、伝説を漠然と捉えれば何となく見えてくることもあります。

泰河勝は、朝鮮半島(新羅)から集団で日本に渡ってきた秦氏という一族の頭領でした。とすると一族を代表する河勝の足跡は秦氏の行動ととることができると思います。

秦氏は先進的な土木・灌漑技術を日本社会にもたらし、「殖産的氏族」といわれています。さまざまな文化や技術で日本社会の発展に寄与しました。そんな秦氏が三濃山一帯の鉱脈を探し当て鉄を産し鍬や鋤など鉄製の道具を生産していったとしても不思議ではないでしょう。

そんな秦氏の行動を裏付ける証が大避神社です。大避神社は秦氏の氏神で、秦氏という血族集団が、その集団を維持し一族の生活を成り立たせていくための精神的中核をなしました。祭神は泰河勝です。それは後世に日本における一族の発展の基盤を築いたということで神となったのでしょう。

この大避神社が西播磨全域に分布しています。旧赤穂郡内の大避神社に限ってみれば、「赤穂郡神社明細帳」(1879)には21の大避神社が記載されています。『相生市史』ではそれ以外のものも含めて赤穂郡内に分布する大避神社を図示してあります(下図)。当然三濃山にまつられている大避神社も入っています。


赤穂郡内の大避神社の分布(丸に数字)


このような赤穂郡における大避神社の存在と広がりは、秦氏一族が西播磨・赤穂郡に入ってきてこの地の開発を進めていった証でしょう。

そういう事実を踏まえて、以前書いた『播磨国風土記』の渡来人伝説と照らし合わせたとき、渡来集団の天日鉾とは秦氏ではなかったかと想像するのです。時代的にあっているかわかりませんが。

ちなみに、このあとの秦氏の活躍を上げれば、かの有名な矢野荘の礎となった久富保を開発したのが秦為辰(ためとき)であったし、その祖先が開拓した土地の権利を守ろうとしたのが、秦氏の末裔で播磨の悪党 寺田法念だったわけです。

つまり、矢野という地は飛鳥時代から室町時代まで秦氏を中心に動いてきたといえます。

またまたちなみに、西播磨は秦氏ですが、東播磨を開拓していった渡来氏族は百済系の東漢氏といわれています。




三濃山にある大避神社


こ  


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2012年01月25日

三濃山にまつわる偉人たち2-泰河勝他

聖徳太子の側近である秦河勝は、蘇我氏との政争に負けて大和国を追われ、相生か赤穂の坂越に移り住んだと言い伝えられています。そんな秦河勝の三濃山にまつわる伝承といえば以前にも取り上げた三本卒塔婆の伝説が有名です。秦河勝は「三濃山にまつわる偉人たち」でもっとも重要な人物といえるでしょう。なぜなら河勝から三濃山にまつわる人物がつながっていくからです。ちなみに、秦河勝は仏教を崇拝していましたので、恵弁・恵聡を慕ってきたという説もあります。そうすれば、三濃山にまつわる人物は、恵弁・恵聡から一本の線でつながっていくことになります。

『播州赤穂郡志』(1747)に書かれる三本卒塔婆の伝承を述べると、河勝が狩りをしに猟犬を2匹連れて三濃山にきました。路傍に大蛇がいたが川勝は気付かず、犬がただ吠えるだけでした。犬は飛び上がって大蛇と闘い、ついには倒したものの自分も死んでしまいました。河勝はこれを哀れみ、持っていた弓を三つに折って二匹の犬と大蛇を弔い、卒塔婆としました。

この後日談として、『地誌 播磨鑑』(1762)には、弘法大師がこの地(矢野)に来て三本卒塔婆の由来を聞いて三濃山に大同年中(806~809)に伽藍を建立し真言密教の法窟としたとあります。

また、「三野山求福教寺縁起」(1808)には、貞観6年(864)に赤穂郡の大領となった秦造内麻呂が河勝の遺跡(三本卒塔婆)を訪ね、その菩提を弔うために三濃山に観音寺(求福教寺観音堂)を建てたとあります。犬塚(三本卒塔婆)は内麻呂が建立したとの伝承も有ります。

そして、時代が下り、源八幡太郎義家の時代(平安後期)に三濃山の山岳信仰はピークを極めますが、保元・平治の乱後、源平相戦い、平家によって三濃山は荒廃していきます。



犬塚(三本卒塔婆)


こ  


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2012年01月24日

三濃山にまつわる偉人たち1-恵便・恵聡

「三濃山にまつわる偉人たち」で個人名が残るもっとも古い人たちは、百済の僧侶 恵便・恵聡ではないでしょうか。恵聡は恵便の弟子です。

中世播磨の地誌『峰相記』によると、百済から渡来僧としてやってきた恵便と恵聡の二人は、当時排仏派の大連物部氏ににくまれて、播磨国に流されて、矢野の奥(三濃山か)に草庵を結んで居住し、三年後召喚された、と伝えています。

ちなみに、瓜生の羅漢石仏には、その時に彼らが、衆生に仏縁を結ばしめんと作り、そこに安置したという伝説があります。


羅漢石仏


ところで、播磨って、次回話す泰河勝もそうですが、かつては中央(畿内)で政争等に負けて流されたり、隠れ住む隠棲地だったという見方があります。

『播磨国風土記』では、意奚、袁奚のニ皇子(のちの仁賢・顕宗天皇)が大和の政変に絡んで逃げてきたのが加古川流域の三木市志染町とあります。興福寺の青年僧教信は突然姿を消して加古川に住みつき、性空は九州の霊山での修行を終えて京に帰る途中、思案の末京を捨て書写山におもむきます。村上源氏の流れをくみ丹波守を務めた源季房が佐用に配流、もっとも有名なところでは陰陽師芦屋道満がライバル安倍晴明に負けて、これも佐用に配流されます。

播磨という地は、畿内(中央)に最も近い畿外(中央から外れた地)ということで、ある意味重要な地であったわけですね。かつ、肥沃な豊かな大地を要し生活がしやすい土地だったといえます。そんな地のなかに矢野もあるわけです。

隠棲の人・配流の人とは違いますが、鎌倉時代、関東御家人が多数、進歩地頭として播磨に入ってきています。矢野(矢野荘)でいえば海老名氏ということになります。

こ  


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2012年01月19日

鉱山としての三濃山

先日、『播磨国風土記』の記述から西播磨地域は鉄がよく産出される地域であったということを述べました。しかし、『播磨国風土記』は赤穂郡の条が欠落しており、私たち相生市や矢野町のことについてはわかりません。

でも、今に残るいろんな事柄を総合すると、三濃山およびその周辺には鉱脈があって、信仰深く栄えていた様子が浮かび上がってきます。

三濃山のある矢野町北部の集落に、「金坂(かねさか)」「釜出(かまで)」という集落があります。また、三濃山のすぐ下の集落の瓜生には「金掘(かねほり)」という字名もあります。そして、三濃山に接する上郡町側の集落が「金出地(かなじ)」といいます。まさにそのものですよね。

また、三濃山から瓜生を通って矢野川に注ぎ込んでいる川を、地元では「鍛冶屋川(かじやがわ)」と呼んでいます。地名的にも三濃山周辺の地は、鉱物を産し加工物を生産し、「三濃千軒」といって人々が多く住んで栄えていたんだろうなということが想像できます。

今、羅漢の里、鍛冶屋川のほとりに、刀鍛冶の桔梗光史さんが2年ほど前に来られて、築約50年の水車小屋を改装し鍛刀場として鉄を打っておられます。何か感じるものがありますね。


では、三濃山そのものに目を向けますと、『相生市史』には三濃山の東谷に「鉄山(かねやま)」があったと書いてあります。確かに、人によると、東谷に坑道の入り口の跡が3つあるとか、掘った跡があるとか聞きます。

かつて三濃山の堂宇の一つに求福教寺の守護神として山王神社がありましたが(現在は篤信家により再建されている)、ある方のレポートによると、「(山王神社の)祭神は山の頂を支配する神の意味をもつ「大山咋神(おおやまくいのかみ)」で、「咋」は「食い破って穴を開ける」の意となり、採鉱を意味する」とあります。

そして、「従って山王神社は鉱山にも縁を持つ神となり、事実三濃山東谷には鉱山跡も有り、三濃山の山名も鉱山関連語の「実濃山」とすれば「良質の鉱物が出る山」の意味ともなる」と書かれています。

「みの」や「みのう」という言葉は鉱山や鉱物あるいは「鉄(かね)」に関係する言葉なのでしょうか。そういえば、美濃(岐阜)は戦国時代刀剣の産地ですし、兵庫県の美嚢郡は三木の金物で有名ですしね。

他にも、三濃山はかつて鉱山に咲くといわれているササユリが群生していたとか、三濃山の水は鉄分が多く(赤茶色くなる)ワサビの栽培はムリだとか地域の方にお聞きしました。



現在の山王権現社



菅谷の旧筑紫街道脇にある山王神社の鳥居


こ  


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2012年01月06日

渡来人と鉄-『播磨国風土記』から

今、『相生市史』を読んでいますので、ここ何回かに分けて矢野町のアイデンティティを歴史的に探ってみたいと思っています。それによって、矢野町の人たちが誇りをもって地域づくりをやっていけると思うからです。

ということで、まずは『播磨国風土記』から入っていこうと思います。最初は、西播磨という少し大きな範囲からみていきます。というのも『播磨国風土記』は残念ながら、相生市や矢野町が関わる赤穂郡の条が欠落しているからです。

『風土記』は、奈良時代に朝廷の命によって編まれた、その当時の様子を表す各国の地誌です。現存するのは、播磨、出雲(島根)、豊後(大分)、肥前(佐賀・長崎)、常陸(茨城)の5国しかありません。その中で完本は『出雲国風土記』だけです。『播磨国風土記』には、農耕に関すること、土地の開拓、国占め闘争、中央との関係、渡来人伝承などが書かれており、播磨のもっとも古い地誌といえます

『播磨国風土記』のなかで、今回特に着目したいのが、鉄と渡来人の関係です。

『播磨国風土記』には、製鉄や鉱山に関する記述がいくつか出てきます。たとえば、託賀郡(多可郡)の条では、「天目一神(あめのまひとつかみ)」が出てきます。これは一つ目の神で鍛冶の神です(火を見すぎて目がつぶれた)。

西播磨に目を向けますと、讃容郡(佐用郡)の条、後段に「山の四面に十二の谷あり。皆、鉄を生す」とあります。また、宍禾郡柏野里敷草村(現宍粟市千種町)の条にも末尾に「鉄を生す」と出てきます。

製鉄(鍛冶)に関するところでは、揖保郡枚方里佐比岡の条で出雲の国人らが通行を妨害する神を鎮めるために「佐比」を作って祭るという記述が出てきます。「佐比」とは農耕用の鍬のことで鉄の鍬のことを「サヒ」といいます。つまり、西播磨の広範囲で鉄を産する鉱山があって、それを使って製品を作る技術があったということです。

次に、揖保郡粒丘の条では「天日鉾命、韓国より渡り来て」とあり、新羅の王子である天日鉾(あめのひぼこ)が揖保川河口までやって来て在地の神、葦原志挙乎命(あしはらのしこのみこと)と対決しています。天日鉾は朝鮮半島からの製鉄集団(軍団)と考えられています。

宍禾郡波加の村(宍粟市波賀町)の条では、伊和大神は「思いもよらない。先に来ていたのか」と、自分よりも早く、播磨の鉄に早く気付いて波加の村(波賀)にやってきた天日鉾にビックリしています。

つまり、ここからわかることは西播磨には鉄を産する鉱山があって、朝鮮半島から製鉄の技術をもった集団が在来の豪族と対立しながらも入ってきたということです。そのこともあって西播磨は技術的に開拓が進み、西播磨の農業は発展していったといえるでしょう。

つづく



里山 すっかり葉も落ちて寒そう


こ  


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