2011年07月21日

「所有」と「所持」

昨日は「総有」というお話をしました。
今日はそれをもう少し掘り下げたいと思います。

昨日はブログの中で「共同山林など入会地は実際は所有という概念で図れば「総有」である」と書きました。「所有という概念で図れば」というところがポイントです。実は正確には入会地=「総有」ではないのです。

近世以前、村人には「所有」という概念はありませんでした。「所有」は近代以降、西洋の価値観、文化、様式を取り入れるなかで持ち込まれた概念で、資本主義の発達とともに形成されたものといえます。

それでは、以前はそれに類するものは何だったのか。
「所持」という言葉があります。古文書にも「所有」という言葉はでてきませんが、「所持」とか「村持(村の所持)」という言葉はよくでてきます。入会地は村の所持だったのです。

「所有」と「所持」。一見同じようですが、実は似て異なります。
「所有」は、所有権という言葉があるように、そのものを支配・管理している者が絶対的な権利を有しており、ものを自由にいじったり処分できます。

一方、「所持」にはどこか預かりものというニュアンスが隠されています。この土地は今私が支配しているが、それはたまたま私が今預かっていて使わせてもらっているのだ、という感覚です。

では、だれに対して預かっているかというと、究極的には神様です。代々続く家の敷地に対してもそうです。それは御先祖様からの預かりものです。そしてそれは最後には神様に昇華します。氏神がそうです。この感覚は日本固有のものではなく、インドネシアなど東洋の他地域でも見られます。

そうすると、共同山林など里山として利用されてきた入会地は、村人にとっては「所持」しているという観念はあっても「所有」しているという意識はなかったわけです。そもそも「所有」という観念がなかったわけですから。それを明治政府は、入会地を「無主の地」といって取り上げていきました。

しかし、そうはいっても現代社会は西洋の文化を取り入れ、その価値観で組み立てられています。つまり、すべてが「所有」という絶対的基準のもと法律も組み立てられています。それが嫌だからといって、革命でも起きない限り、今の世の中の根本的な仕組みが変わることはないでしょう。そういうことで、現在においては入会地=「総有」が現実的な解だといえるのです。

しかし、私たちはこういう歴史的なことを知っておく必要があります。先祖がどういうスタンスで土地と関わり、私たち後世へ引き継いでいったのか。私たちは「所有」という絶対的権利のみを主張するのではなく、「所持」という謙虚な支配にも思いを巡らせ価値判断する度量が必要だと思います。





こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 12:49Comments(0)推進員のつぶやき