2011年08月23日

三濃山登山-求福教寺

かつて三濃山は村落として存在していました。相生市史によると明治末期には17戸70名の方が住まれていました。しかし、時の流れとともに住民は次第に山から下り、昭和50年代に最後の1戸2名が下りて廃村となりました。

そんな三濃山村ですが、毎月18日に大阪よりこられて、求福教寺の観音堂をはじめ境内を清掃され、お経を上げてお参りされている一家があります。そこに相生市内の地域の方や元住民の方が数人加わってお手伝いをされています。




仏具を外に出し観音堂のお掃除をします
境内の掃き掃除もされています




お掃除が終わるとお花とお供え物が供えられ、みんなでお経が上げられます


お話を伺いますと、大阪より来られている一家は、大阪に本社を構え東南アジアに工場を持って帽子の企画・製造を手掛ける会社の社長さんとその兄弟の一家だそうです。もともとは今の社長さんのお父さん、先代が上郡の金出地で事業を始めるとき、事業成功の祈願を行った際に神官から「あの方向から何かを感じる。むしろあちらをまつりなさい」というお告げあったそうです。

それで、その方向は三濃山だったので地元の人に連れて行ってもらうと、先代がそこで見たものは草が生え、荒れ果てた求福教寺だったわけです。信仰心の厚かった先代は私財を費やして観音堂を修復し、また森化していた伽藍跡を切り開き礎石を頼りに山王権現を復元していきました。手前の三重塔もゆくゆくは復元し伽藍を復興させたいと思われていたようです。

その先代も約15年前に亡くなり、今は現社長である息子さんたちが後を引き継いで自分たちの息子さんも一緒に一族で毎月18日にお世話をしに大阪からこられているというわけです。これは並大抵のことではないと思いました。

みなさんはお経が終わると、別に休憩所が建てられているのでそこでお昼をしてから帰られます。このとき、私も神戸新聞の記者さんもお昼を用意していなかったのですが、自分たちのお弁当から少しずつ分けてくださったのでした。そして帰りにはお下がりもいただいて、本当に恐縮です。


毎月来られているという三濃山の元住民の方に「自分が生まれ育ったこの地にやっぱり何か思いがあってこられていますか」と尋ねますと、「それより、(本来自分たちがしなければならない)この地の面倒を見てもらっているので申し訳ないという気持ちがあって…」と答えられました。これは地域づくりの観点からもなかなか意味深い回答です。またあらためて考えてみることとしましょう。





観音堂の向かって右側にある大避神社。秦河勝が祭神




観音堂の向かって左側にある弁財天を祭った市杵嶋神社。弁財天は水の神様




伽藍復元で建てられた山王権現
祭神は山嶽を支配する大山津見の神で、観世音菩薩の権現
山王権現の鳥居だけは昭和3年に菅谷の鳥居屋敷に再建されている




伽藍の中に新たに水子地蔵が作られている




最後に神戸新聞さんの記事を載せておきます。
(画像をクリックすると大きくなります)



2011年8月23日神戸新聞





  続きを読む


Posted by 矢野町交流広場 at 14:55Comments(0)お宝発見(遺跡等)