2011年08月24日

三濃山登山-ムラの跡

三濃山村は昭和50年代に最後の一家が離村して廃村となりました。あれから約40年、ムラの跡はどうなっているのでしょう。元住民のTさんに案内してもらい、ぐるっと回ってみました。

家はすべて朽ち果てて無くなり、田や畑であったところは大木や竹が生え、シダが生い茂り、森化しています。それは住民がムラを下りられるとき、田畑に植林されて離村されたことにもよります。

かつてここにムラが存在し人の生活があったこと、そしてきれいな棚田の風景があったことが嘘のようです。30年以上という時の流れを思わずにはおられません。棚田のあるムラの風景を見られなかったのが残念です。



もともと畑だったのでしょうか。シダが覆っています。


田の中に大木が育っています


ここにも



石垣の上には家が建っていました。もうありません。


家があった場所は竹林に


家を感じさせるものは、壊れた瓦ぐらい


座敷のあった真ん中に巨木が・・・30年という年月


井戸の跡


井戸横にある水溜め場 
この時期オタマジャクシがうようよいました
それだけ水温が低いのですね


別の水溜め場


農業施設であったため池の跡



三濃山は、歴史的にも高麗の僧 恵弁・恵聡が逃れてやってきた地、また聖徳太子の側近、秦河勝が狩りを楽しんだ地、そしてそういう仏縁浅からぬ地に空海が寺院を建立しようとやってきた地と伝えられています。

後世に、秦内麻呂が河勝の遺蹟を訪ね偲び求福教寺を興し、その後、源義家が堂宇を再興して三濃千坊といわれるまで一時栄えました。ちなみに、求福教寺観音堂の本尊は千手観世音菩薩像で、向かって右に金龍に乗った弘法大師(空海)像、左に聖徳太子像が祭られています。だた、実際この地にムラができたのは江戸時代以降だろうといわれています。

そんな歴史上の大物が多数関わってきた三濃山。それこそ地域の宝ですし、それを放っておくわけにはいかないでしょう。地域の活性化、すなわち矢野町の活性化や元気に十分貢献できるパワーを三濃山は秘めていると思うのです。

昨日のブログにも書きましたが、今、大阪の篤志家一家とわずかな有志によって三濃山はなんとか維持されている状態で、元住民のお一人は申し訳ない気持ちだといわれます。三濃山村の土地権利も、時代的に他の山林同様どうしようもできず、大部分は元住民が今でもそのままもっておられるようです。

今、三濃山を地域の宝、矢野町の宝と捉えるならば、地域としてなんとか三濃山を管理・運営できないものだろうか。しんどいだけでは続きませんので、地域事業としてそこを舞台に地域がお金を稼げる事業ができないだろうか。

個人的な思いをいえば、将来的には、田畑・住居のあった森化した部分も、もう一度切り開いてなんらかの事業展開につなげられたらと、そんなことを思ったりしています。


  
タグ :三濃山ムラ


Posted by 矢野町交流広場 at 17:26Comments(0)お宝発見(遺跡等)