2012年01月24日

三濃山にまつわる偉人たち1-恵便・恵聡

「三濃山にまつわる偉人たち」で個人名が残るもっとも古い人たちは、百済の僧侶 恵便・恵聡ではないでしょうか。恵聡は恵便の弟子です。

中世播磨の地誌『峰相記』によると、百済から渡来僧としてやってきた恵便と恵聡の二人は、当時排仏派の大連物部氏ににくまれて、播磨国に流されて、矢野の奥(三濃山か)に草庵を結んで居住し、三年後召喚された、と伝えています。

ちなみに、瓜生の羅漢石仏には、その時に彼らが、衆生に仏縁を結ばしめんと作り、そこに安置したという伝説があります。


羅漢石仏


ところで、播磨って、次回話す泰河勝もそうですが、かつては中央(畿内)で政争等に負けて流されたり、隠れ住む隠棲地だったという見方があります。

『播磨国風土記』では、意奚、袁奚のニ皇子(のちの仁賢・顕宗天皇)が大和の政変に絡んで逃げてきたのが加古川流域の三木市志染町とあります。興福寺の青年僧教信は突然姿を消して加古川に住みつき、性空は九州の霊山での修行を終えて京に帰る途中、思案の末京を捨て書写山におもむきます。村上源氏の流れをくみ丹波守を務めた源季房が佐用に配流、もっとも有名なところでは陰陽師芦屋道満がライバル安倍晴明に負けて、これも佐用に配流されます。

播磨という地は、畿内(中央)に最も近い畿外(中央から外れた地)ということで、ある意味重要な地であったわけですね。かつ、肥沃な豊かな大地を要し生活がしやすい土地だったといえます。そんな地のなかに矢野もあるわけです。

隠棲の人・配流の人とは違いますが、鎌倉時代、関東御家人が多数、進歩地頭として播磨に入ってきています。矢野(矢野荘)でいえば海老名氏ということになります。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 13:50Comments(2)矢野歴史考