2012年01月27日

三濃山にまつわる偉人たち3-弘法大師と聖徳太子

三濃山の求福教寺観音堂にまつられている本尊は、千手観世音菩薩像です。千手観音、三濃山の人たちはそこでの現世や来世の利益を願って信仰したのでしょう。

そして、世手観音の両脇には脇士として、向かって右に金龍に乗った弘法大師像、左に聖徳太子像がまつられています。と、『相生市史』には記述されていますが、ある方によると、金龍に乗った弘法大師像というのは、いわゆる立体の仏像ではなくて掛け軸になった画だそうです。そして、その画は金龍に乗っているのは弘法大師ではなくて、どうも観音菩薩でそれを子どもの弘法大師が見ている図だそうです。写真を撮られていました。


弘法大師に関して、この地に残る伝説に次のようなものがあります。

「弘法大師が三濃山を霊地と考えて、この鍛冶屋谷に百の谷があれば真言宗の本山にしようとした。それを嫌った村人は鞍居にある一つの谷を隠していわなかったので、三濃山は高野山のように栄えなかった」

ただ、これと同じような伝説はどうも他の土地にもあるようです。

弘法大師本人が実際に三濃山に来たかどうかはわかりませんが、この辺のお寺はもともとは真言宗であったと聞きますし、弘法大師に関わる高野聖がきて広めていったとか、そういうことはあったのでしょう。

では、なぜ弘法大師あるいは高野聖がこの地に来たのか。弘法大師は鉱山師であったという説もあります。三濃山の鉱脈に引き寄せられてきたのかもしれません。

聖徳太子については、『相生市史』によると、聖徳太子は大工とか左官、鍛冶屋などの職人によって信仰されており、近隣の南光町には奈良時代末のタタラ遺跡が発見されていて、三濃山に鍛冶屋谷という地名もあって、千種鋼につながるタタラに関係した人がいた結果、聖徳太子像がまつられたのではないだろうか、と推測しています。

弘法大師、聖徳太子ともに「鉱山としての三濃山」につなげられるところが面白いところです。

この地(三濃山周辺)の大師信仰、太子信仰のいわれははっきりしませんが、いずれにせよ、この辺りの地には弘法大師や聖徳太子にまつわる伝説が数多く残っており、彼らへの信仰がいかに厚い土地柄であったかがわかります。その二人を脇士とする観音堂がこの辺りでもっとも高い三濃山あることは象徴的です。


『相生市史』に次のような記述がありました。

大師信仰により弘法大師がまつられた。大師とは弘法大師を指し、大いなる貴い神という意味で「遊行のマレビト」であると。大師信仰とは、このようなマレビトの訪問を期待し、これを厚くもてなすことによって、自分たちの生活を幸せにしようとする考えであると。

また、『相生市史』で、同じ矢野町の北東部に位置し、三濃山より早く昭和初期に廃村になった「黒蔵(くろぞう)村」について記載しているところで、

「人がいないので淋しいものであった。こんな淋しい僻地であるために、流浪の旅人などがくると、歓待して泊め、外部の世の中のことを聞いたであろう。おまんという旅人がこの地に居着き、ここで死んだ。村人たちは故郷に帰れず他郷で死んだあわれなおまんの霊を供養するため、おまんのお堂を建てたという」

似たような事情で供養塔が森と能下の村境にも立っているそうです。お堂や供養塔を立てまつることによって、賽の神として村を護ってくれとの願いが込められているそうです。

これらの事柄に触れて、今後の矢野町の地域づくりの方向性をみる思いです。すなわち、地域外の人たちを「心のふるさと矢野」にお呼びしおもてなしをすることが、矢野の活性化になり、しいては矢野の再構築につながっていくのではないかと。


余談ですが、ぼくは聖徳太子と弘法大師になんか親しみがあるんですよね。私が住んでいるのは聖徳太子をまつった斑鳩寺(おたいっさん)のある太子町鵤ですし、ぼくの名前は「弘一」で偉い先生が弘法大師から一字もらって付けたと家族から小学生の時に聞きました。



1月25日矢野に雪が降る。矢野町交流広場の窓から
(今日はいいお天気ですけどね)


こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 16:16Comments(2)矢野歴史考