2013年09月10日

矢野歴史講座10-一揆の作法

一揆を一揆として成立させるにはある特定の作法(手続き)が必要でした。それは一味同心のための儀式ともいえ、起請文(きしょうもん)の作成と一味神水(いちみしんすい)という行為がそれにあたります。それらは参加者全員が神社の境内に集まる寄合の場で行われます。作法はすべて神仏に対する信仰が大きく関わっています。この時代、神仏への信仰がことのよりどころとなっていました。

農民が一揆して何らかの訴えをおこそうとするとき、その訴えは「百姓等申状」という形式の文書にまとめられます。これは集まった農民全員の意志で書かれたもので、一揆の内容(訴え)をもっともよく示す文書です。

この訴えにうそ・いつわりのないことを東寺の大師八幡(弘法大師空海)をはじめ農民が日常信仰している神仏に誓い、そしてそれを破った場合は神罰・仏罰が下ることをうたった宣誓書のことを起請文といい、百姓等申状に添えられます。それによって訴えがより威力あるものへと強化されます。また、起請文は牛王宝印(ごおうほういん)という特別な紙の裏に書かれており、宣誓したことことがいっそう強調されることになります。

起請文に参加者全員が署判を加えたのち焼いて灰にし、それを水に混ぜ、その水(神水)を全員で分かち飲む行為を一味神水といいます。その神水を飲むことによって人々の団結は強調されることになります。なぜなら神水を飲む行為は神仏との誓約を意味し、神仏を介在することによって人と人との結合を作るからです。

一味同心したメンバーによる一揆の決定は「神慮」すなわち神の意志にもとづくとされ、その行動は神の意志を担っているとされました。したがって、一味同心の決定は万代の効力をもち国家権力を上回るとされたのです。神は国家より上ですからね。そういうところで一揆は覚悟をもって結成されたのでした。

では、ここで先に取り上げた矢野荘の惣荘一揆について、これら一揆の作法がいつどのように行われたのかみてみましょう。

惣荘一揆は永和3年(1377)1月14日、矢野荘の農民たちがことごとく逃散することから始まります。その前日1月13日、矢野荘の農民たちは大避神社(若狭野町下土井)に集まっていました。

当時、大避神社が矢野荘の拠点でした。矢野荘全体に関わる問題は、荘の中央に位置する大避神社において話し合われていました。かつて、秦氏の末裔といわれる寺田氏がまつりをとりおこない、寺田一族の守り神であった大避神社でしたが、寺田氏の没落後大避神社は、矢野荘に住む人々の鎮守へと姿を変えました。

もともとは大避神社では、僧侶による大般若経を転読(字句を略して経文を読む)する大般若講(簡単にいえば僧侶の勉強会)が開かれていました。しかし時とともに衰え、次第に回数が減りついに中断してしまいました。それにかわって農民(名主)たちの間で毎月13日に開かれる十三日講と呼ばれる寄合がおこなわれるようになりました。ここで、矢野荘の農民たちは荘内における運営や課題について話し合ってきました。

永和3年の1月13日も大避神社境内で十三日講が開かれ、惣荘一揆について話し合われ、起請文が作成され、一味神水が交わされたことでしょう。この惣荘一揆において、領主である東寺の対応に業を煮やした農民たちは、「7代にわたって祐尊を代官として認めない」と、何度も一味神水をしたという記録があります。長期にわたる一揆を戦い抜くためには、団結を強める一味神水を何度も繰り返す必要があったということですね。

惣荘一揆の後日談として、東寺は農民たちの分断を図ろうとします。惣荘一揆の張本人だとして農民名主の実長に対する不当な扱いに対して、実長が次のように反論しています。

「惣荘五十余名の名主数十人が一味同心に判をついて訴えを起こしたとき、どうして一人だけ反対することができようか、惣荘一揆にそむいたならばたちまち罰せられるから、本意ではないが判をついたのである」。

ここに、寄合をおこない、起請文を作成し、一味神水をしておこなわれる一揆というものの性格、いかに絶対的なものであったか、村の結びつきがいかに強いものであったか、をうかがい知ることができます。このような強い結びつきがあったからこそ、ご先祖様農民たちは一年以上も続いた惣荘一揆を戦い抜くことができたのでしょう。主体的な意志によって書かれた起請文は、自分たちの地位を向上させる武器となったのです。

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Posted by 矢野町交流広場 at 16:04Comments(2)矢野歴史考