2013年09月27日

『矢野町交流広場ニュース9月号』

『矢野町交流広場ニュース2013.9.25号』をお届けします。

9月の前半は大雨が続き、全国にも大きな被害をもたらしました。そこで今回、一つ目に穏やかな私たち相生矢野の地でもこれは他人事でないと、防災・減災について取り上げてみました。二つ目はキャッサバの追肥作業と収穫の期待、三つ目は今年10周年を迎えるふるさと交流館の10周年記念行事のご案内です。



(画像をクリックすると大きくなります)


こ  
タグ :ニュース


Posted by 矢野町交流広場 at 16:27Comments(0)「交流広場ニュース」

2013年09月26日

矢野荘が世界の矢野荘に-相生市のまちづくりへ

先のブログの「矢野歴史講座」では、中世の時代、矢野荘で起きた惣荘一揆を取り上げ、そこからご先祖様の生活の様子を垣間見てきました。それは「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」という古文書に矢野荘の記録があることからわかるのでした。当時、東寺は矢野荘の領主でしたから。

数ヶ月前の新聞記事ですが(日付を記録するのを忘れた)、朝日新聞を読んでいると、下の記事に目が留まりました。



文部科学省が、ユネスコの世界記憶遺産に2015年の登録を目指す、ということです。これってなんかすごくないですか。登録されれば、世界の中の矢野荘になりますよ。

中世「矢野荘」は、範囲として現在の相生市とほぼ同じということです。去年の3月に開いた「三濃山シンポジウム」で講演いただいた松本恵司先生は、ご自身の著書『ふるさと相生再発見』(2012、相生いきいきネット)のなかで次のようにおっしゃられています。

  戦後の町村合併から、まもなく60年。私たちは、相生は一つの統一体で合うという意識をもって、まちづくりを進めたいものです。(p.54)

  矢野荘復活史観の方が相生市全体の統合には、ふさわしいと考えるようになりました。(p.59)

  二十一世紀の(相生市の:筆者記)まちづくり構想のなかに、歴史と文化を位置づけていきたいものです。(p.81)



ぼくもそう思います。相生市のまちづくりは「矢野荘」を基盤におき、そのテーマ性をもって、かつ戦略的に行われるのがいいのかと。東寺百合文書が2015年に世界記憶遺産に登録されようとしているいい機会です。官(行政)・民(地域住民)あげて実現できればと思います。「矢野荘友の会」が立ち上がるという話もありますし、ぜひぜひ。


ちなみに、新聞記事に書かれている「御堂関白記」と「慶長遣欧使節関係資料」は、今年6月に登録されました。

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Posted by 矢野町交流広場 at 17:15Comments(4)推進員のつぶやき

2013年09月24日

「赤」のある風景

昨日23日は、秋のお彼岸の中日でした。
お彼岸といえばヒガンバナ

今、矢野町に入るといたるところで赤色が目に飛び込んできます。

ポカポカ穏やかな季節。
ヒガンバナを見ながら矢野町をゆっくり散策するのもいいですよ。


(9月22日撮影)


(釜出)


(榊)


(榊)


(榊)


(上)


(上)


(上)


(上)


(上)


(上)


(上)


(菅谷)


(菅谷)


(菅谷)


(菅谷)


(菅谷)


(菅谷)


(下田)


(下田)


(下田)


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タグ :ヒガンバナ


Posted by 矢野町交流広場 at 12:08Comments(0)推進員のつぶやき

2013年09月19日

今月の三濃山

昨日18日、三濃山に登りました。秋晴れのいいお天気です。
今月は月初めの大雨とつい先日の台風18号の影響で、だいぶん山が荒れていました。
相当な土砂が流されたんだろうなー



木切れが散乱し、風の影響で青い葉っぱも落ちています


山道の上にも倒れた木が


このように自然に折れた木・老木が山中にいっぱいあります



頂上のアカガシは大丈夫。元気に青い葉っぱをつけていまいた


まわれ右をすると、相生市を一望できるいい眺め



求福教寺観音堂に向かって左にある弁財天(弁天さん)の、
普段は空っぽの堀に水がたっぷりと溜まっていました
これでこそ弁天さん



松の木の剪定中、カマキリ発見



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タグ :三濃山


Posted by 矢野町交流広場 at 12:07Comments(0)今月の三濃山

2013年09月17日

キャッサバの追肥

今日は秋晴れのいいお天気。日本列島に大きな傷跡を残したおとついの台風18号が嘘のよう。

上陸の前日14日にキャッサバの追肥を行いました。
これが収穫までの最後の作業となります。
ちなみに収穫は11/5の予定。



前回報告よりキャッサバの背丈がさらに大きくなっています


芋部分が一段と育つように、畝のすそに追肥を行います


畝の両側に施しました


カッターでマルチを切って、その中に肥料一握り




2か所ほどマルチが破られ、大きく掘られたところを発見しました
どうも動物の仕業のようです


この足跡からすれば、ヌートリアか


せっかくですので、このキャッサバを掘り起こしてみました
すごい!すでに長いので約45cmまで育っていました
収穫までどれだけ大きくなるか楽しみです


ちなみにヌートリアは少しかじって止めたようですね
お口に合わなかったのかな



背丈が小さいものを観賞用として鉢に植えました
実験的にこれで冬越しができるか、試してみましょう


こ  
タグ :キャッサバ


Posted by 矢野町交流広場 at 15:38Comments(2)キャッサバ関連

2013年09月12日

矢野歴史講座11-一揆の現代的意義

ここ3回は、矢野荘で行われた惣荘一揆から始まり、「一揆」とはどういうものかみてきました。惣荘一揆は中世後半の惣という自治組織(自律した集落)の集まりから生まれたものでした。現代と社会の成り立ちや背景が違いますが、自律した地域・地域自治の実現をめざす矢野町にとって何かそこから学び、感じ取ることができないかという思いで書きました。

確かに宗教色の強い一味神水を今の時代そのまま行うのはナンセンスです(ただ、今でも「直会(なおらい)」といって神酒を一つの杯で回し飲む、似た行為がお祭りのなかで儀式としてあります)。しかし、自律や自治という観点に立って考えたとき、そこから感じとることができるもの(センス)が確かにあります。それはなんだろうと考えたら、「覚悟」という言葉が浮かびました。

ここに書いてきた内容はすべて、矢野荘の記録が収められている「東寺百合文書」に記載されているもので、私たちご先祖様が実際に経験してきたまぎれもない事実です。これらからご先祖様がその時代をいかに必死に生きてきたのかをまざまざと感じ取ることができます。「覚悟」のほかにも「連帯」という言葉が浮かびました。

一揆は主体的に参加した個々のメンバーによって構成されています。そのような一揆はメンバーの自律性や独立性を特徴とし、「一揆に張本人はない」と実長が主張したように、メンバーの「平等」意識を基本的な属性としています。日本中世史学者の勝俣鎮夫は『一揆』という自身の著作のなかで、戦時平時を問わず一貫して一揆に流れる精神は、メンバーの「共同の精神」だといっています。一揆をむすぶことによって「共同の場」を創出しようとしたと。

また、勝俣は惣荘一揆について次のようにいっています。

「惣荘一揆とよばれる一揆は、惣という重層的な階層構成をもつ村落共同体を、一揆という形をとることにより、別の次元の、成員を平等とする『共同の世界』を一時的につくりあげるとともに、惣的総合を母体とすることにより、その一揆を『一同』とすることが可能となり、現実の力のみならず、『一同の観念』にもとづく新しい力をもつようになった」(勝俣鎮夫、『一揆』、1982、p89)

一揆は、現実の力を超えて「一同の観念」にもとづく新しい力をもつようになりました。今、矢野町がやろうとしている地域づくりに必要なのは、一揆、あるいは一揆の精神なのではないかと思えてきます。

一揆はある目的達成のために結成され、機能する集団でした。矢野町が進める地域づくりのなかでいろんな地域課題があります。それらを解決し、みなが幸福な暮らしを享受することを目的として、私たちもご先祖様にならって一揆をむすびましょう!



契約講の「掟覚帳」にある連判(江戸時代末期)



一味神水(契約講の直会、2008)


  


Posted by 矢野町交流広場 at 16:41Comments(0)矢野歴史考

2013年09月10日

矢野歴史講座10-一揆の作法

一揆を一揆として成立させるにはある特定の作法(手続き)が必要でした。それは一味同心のための儀式ともいえ、起請文(きしょうもん)の作成と一味神水(いちみしんすい)という行為がそれにあたります。それらは参加者全員が神社の境内に集まる寄合の場で行われます。作法はすべて神仏に対する信仰が大きく関わっています。この時代、神仏への信仰がことのよりどころとなっていました。

農民が一揆して何らかの訴えをおこそうとするとき、その訴えは「百姓等申状」という形式の文書にまとめられます。これは集まった農民全員の意志で書かれたもので、一揆の内容(訴え)をもっともよく示す文書です。

この訴えにうそ・いつわりのないことを東寺の大師八幡(弘法大師空海)をはじめ農民が日常信仰している神仏に誓い、そしてそれを破った場合は神罰・仏罰が下ることをうたった宣誓書のことを起請文といい、百姓等申状に添えられます。それによって訴えがより威力あるものへと強化されます。また、起請文は牛王宝印(ごおうほういん)という特別な紙の裏に書かれており、宣誓したことことがいっそう強調されることになります。

起請文に参加者全員が署判を加えたのち焼いて灰にし、それを水に混ぜ、その水(神水)を全員で分かち飲む行為を一味神水といいます。その神水を飲むことによって人々の団結は強調されることになります。なぜなら神水を飲む行為は神仏との誓約を意味し、神仏を介在することによって人と人との結合を作るからです。

一味同心したメンバーによる一揆の決定は「神慮」すなわち神の意志にもとづくとされ、その行動は神の意志を担っているとされました。したがって、一味同心の決定は万代の効力をもち国家権力を上回るとされたのです。神は国家より上ですからね。そういうところで一揆は覚悟をもって結成されたのでした。

では、ここで先に取り上げた矢野荘の惣荘一揆について、これら一揆の作法がいつどのように行われたのかみてみましょう。

惣荘一揆は永和3年(1377)1月14日、矢野荘の農民たちがことごとく逃散することから始まります。その前日1月13日、矢野荘の農民たちは大避神社(若狭野町下土井)に集まっていました。

当時、大避神社が矢野荘の拠点でした。矢野荘全体に関わる問題は、荘の中央に位置する大避神社において話し合われていました。かつて、秦氏の末裔といわれる寺田氏がまつりをとりおこない、寺田一族の守り神であった大避神社でしたが、寺田氏の没落後大避神社は、矢野荘に住む人々の鎮守へと姿を変えました。

もともとは大避神社では、僧侶による大般若経を転読(字句を略して経文を読む)する大般若講(簡単にいえば僧侶の勉強会)が開かれていました。しかし時とともに衰え、次第に回数が減りついに中断してしまいました。それにかわって農民(名主)たちの間で毎月13日に開かれる十三日講と呼ばれる寄合がおこなわれるようになりました。ここで、矢野荘の農民たちは荘内における運営や課題について話し合ってきました。

永和3年の1月13日も大避神社境内で十三日講が開かれ、惣荘一揆について話し合われ、起請文が作成され、一味神水が交わされたことでしょう。この惣荘一揆において、領主である東寺の対応に業を煮やした農民たちは、「7代にわたって祐尊を代官として認めない」と、何度も一味神水をしたという記録があります。長期にわたる一揆を戦い抜くためには、団結を強める一味神水を何度も繰り返す必要があったということですね。

惣荘一揆の後日談として、東寺は農民たちの分断を図ろうとします。惣荘一揆の張本人だとして農民名主の実長に対する不当な扱いに対して、実長が次のように反論しています。

「惣荘五十余名の名主数十人が一味同心に判をついて訴えを起こしたとき、どうして一人だけ反対することができようか、惣荘一揆にそむいたならばたちまち罰せられるから、本意ではないが判をついたのである」。

ここに、寄合をおこない、起請文を作成し、一味神水をしておこなわれる一揆というものの性格、いかに絶対的なものであったか、村の結びつきがいかに強いものであったか、をうかがい知ることができます。このような強い結びつきがあったからこそ、ご先祖様農民たちは一年以上も続いた惣荘一揆を戦い抜くことができたのでしょう。主体的な意志によって書かれた起請文は、自分たちの地位を向上させる武器となったのです。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 16:04Comments(2)矢野歴史考

2013年09月09日

矢野歴史講座9-「一揆」とは

中世という時代はよく一揆の時代といわれるようです。『相生市史』(第2巻、p.112)には、武士や僧侶から一般の農民にいたるまであらゆる階層の人々が、時と場合に応じて、さまざまな目的で一揆をむすんだ、とあります。

「一揆をむすぶ」? 「一揆」とはそもそもどういうことをいうのでしょうか。

『相生市史』によると、一揆とは揆(軌)を一にすること、すなわち心を同じくして(一味同心)、ともに行動することをいいます。たとえばある人物の支配を受け入れないという場合、あるいは共同で訴えを起こそうとする場合、これらのまとまった行動はいずれも一揆と呼ばれます。

そして、さらに次のように書かれています。

「一揆をおこなうためには共通の目的が必要である。皆に共通する目的がなければ、いかなる一揆もおこりえない。共通の目的をもつためには、共通の条件が必要である。その共通の条件としては、農民の生活をとりまくさまざまな条件―支配・行事・天候・災害などをあげることができるだろう。このような共通の条件にねざした土一揆(農民たちがおこなう一揆:筆者記)は、なんら特別な出来事ではなく、むしろ人々の日常生活の延長のうえにおこなわれたものだったのである」。

「矢野荘においても、ちょうど南北朝時代にはいったころから、いくたびもの一揆がむすばれたことが知られる。(中略)矢野荘の人々は、自分たちの力を自覚し、自分たちの手で生活をまもろうとしたにちがいない。いくたびもの一揆は、こうした人々の努力のあらわれなのである」。


そうか、「一揆」とは本来的にはどちらかというと、その「行為」そのものより「状態」のことをいうのか。共通の目的を達成するために、軌を一にすること、心を同じくすることが大事で、それを一揆と呼びました。さまざまな研究によると、一揆は中世末に畿内周辺に成立した組的結合のムラ(たぶん惣村のこと)の呼称に用いられたり、そこで行われる寄合のことを一揆と呼んだりすることからも、わかります。一揆には特定の手続き(作法・儀式)が必要でした。どんな儀式が必要だったのか、次回それをみていきます。

ところで、「共通の目的をもつためには共通の条件が必要である」と書かれています。集落や地域ということで考えてみると、この頃の時代は、そこに住む人が皆同じ生活をしていました。すなわち、皆が同じように田んぼを作りそれを糧に、助け合いながら(「結(ゆい)」)生きてきた。そのことが一番大きな共通の条件なのでしょうね。

しかし、現在に置き換えてみると、人それぞれいろんな生活の仕方があって、共通の条件というものが数少なくなってきています。地域の課題を解決する(共通の目的の達成)には、地域においていかに共通の条件に類するもの(共通感情とか)を育てる、あるいは作り出すことができるかがキーになっていると思います。

こ  
タグ :一揆


Posted by 矢野町交流広場 at 14:00Comments(0)矢野歴史考

2013年09月06日

矢野歴史講座8-惣荘一揆

矢野歴史講座前3回は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて成立し、自治機能が高度に発達した「惣」あるいは「惣村」という村落組織を概観しました。私たちご先祖様が生きた「矢野荘」の数々の村落も当然「惣村」であったわけです。

今回シリーズは、惣村のなかで自分たちの権利・生活を守る抗議行動として行われた「一揆」について取り上げたいと思います。荘園を範囲とし矢野荘でもっともはげしい行動がとられた一揆が、永和3年(1377)に起こった「惣荘一揆」でした(『相生市史第2巻』pp110‐132)。

惣荘一揆は、矢野荘の領主である東寺の代官 祐尊に対する抗議行動です。祐尊は20年にわたり矢野荘の農民に対し、規定以上に人夫としてこき使い、年貢を取り立てながら領主には未納として報告するなど、私利を肥やす行為を繰り返し行ってきました。それに堪忍袋の緒が切れたご先祖様農民たちは、圧倒的な強さをもつ守護勢力を味方につけている祐尊に対し、「逃散(ちょうさん)」という手段によって対抗しました。

逃散とは、領主に対して不満をもつ農民たちが集団で耕作を放棄し、他所へ身を隠すことをいいます。今でいうとストライキのようなものでしょうか。惣荘一揆は、逃散が1月14日からはじまりましたが、一応東寺(寺家)が新たな代官を立てることを約束したことによって、農民たちは2か月半経過して帰住しました。なんとか春の耕作には間に合うことになり、東寺としても農民としても一年分の収穫をふいにすることは免れました。

しかし、その後も祐尊は矢野荘にとどまり、自分に従おうとしない農民たちを守護の力を借りて弾圧しようとしました。12月2日、農民たちが小山田(若狭野町若狭野)で寄合を行っていたところ、祐尊は守護の浦上氏一族と数十人の悪党を率いて農民たちに襲いかかりました。農民たちは、自分の所務にしたがえという祐尊の求めに応じなかったためことごとく寵舎されました。その人数は35人、1,2反の百姓は数も知れないほどで、寵舎の四方にはかがり火がたかれ、浦上らの家来数十人が警固していたといいます。

祐尊は年貢よりもまず、自分を窮地におとしいれた農民たちに復讐しようとしたのです。それでも農民たちは年貢米を所縁の者や隣荘に預け、給主と代官(祐尊)を交代してくれるならば、一粒の未進なく年貢を納めると寺家に申し入れました。それを受け寺家では評定が開かれ、今年分の年貢については農民が直接京都まで運ぶこと、所務に対する祐尊の干渉を除くことが、全員一致で決定されました(12月12日)。ここに農民たちと祐尊との対立は、ご先祖様農民たちの勝利で終わります。

ただ、その後も現地(矢野荘)では混乱が収まらず、祐尊の下人と浦上の使者が農民に水による拷問を加え年貢を責め取っており、寺家は浦上に働きかけ、祐尊に対しても干渉をやめるよう再度命じています。しかし、翌年になっても事は収まらず、農民たちが耕作かなわず逃散したことを訴えると、寺家は守護に訴え、抗議してきた浦上に対しては断りを入れ、3月12日、祐尊の所務をとどめ新たな代官を任命することを決定します。こうして矢野荘は1年以上かかって、ようやく落ちつきを取り戻すことになりました。

ここに矢野荘で起きた惣荘一揆のあらましをみてきました。このように逃散など、単に武装蜂起をすることだけを一揆というのではなく、一揆にはいろんなやり方があります。では、そもそも「一揆」とは何なのでしょうか。次回、一揆の本質に迫っていきます。

こ  
タグ :一揆


Posted by 矢野町交流広場 at 15:33Comments(0)矢野歴史考

2013年09月05日

ついに広場にもイノシシが

昨日もすごい雨でした。姫上線のたつのから相生に入る手前、道路が川状態で水の中を走っているようでした。

一夜明けて今日
矢野町交流広場の道挟んでお隣の敷地にどうもイノシシが出現したようです
ここ何年も矢野町の農家さんを苦しめているイノシシやシカですが、とうとう広場のすぐここにも
これまでこの場所はやられたことがなかったらしいのに・・・




イノシシはこうやって掘って、ミミズを食べるんだそうです


昨夜はあの雨で土が柔らかく、よく獲れたでしょうね


お隣さんが教えてくださって、「いぶき」の畑で植えているカボチャも危ないでということで、急きょ収穫しました。



カボチャ、花とともによく育っています


収穫しました



ためしにサツマイモを掘ってみるといい色に育っていました


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Posted by 矢野町交流広場 at 16:22Comments(0)推進員のつぶやき

2013年09月03日

今日も雨


(矢野町交流広場の窓から)


雨、降ったり止んだり

止んだかと思うとまた降って

降ると激しい雨

嫌な予感

また、降りだした







こ  

Posted by 矢野町交流広場 at 17:53Comments(2)推進員のつぶやき

2013年09月02日

矢野川増水

朝方、矢野も大雨でした。

警報が発令され、今日から新学期でしたが休校になりました。
残念(えっ、子どもたちはラッキーかな)

13時現在、雨は止んでいますが、まだ洪水警報がでています。
→さっき(13時43分)ネットで確認すると解除されていました。

みなさん、気をつけていくださいね。


上(かみ)の井上橋からみた矢野川。増水していますね。










ところで、この井上橋はむかし橋の近くに井上さんて方のお家があったからその名がついたとお聞きしました。

こ  
タグ :警報矢野川


Posted by 矢野町交流広場 at 13:37Comments(0)推進員のつぶやき