2014年09月16日

矢野歴史講座12-寄合について

矢野歴史講座、約1年ぶりのご無沙汰となります。この矢野歴史講座は、シリーズの構成や資料の準備・調査、そして原稿作成など下準備に時間がかかり、かなりエネルギーを費やします。でも、ようやく終盤にかかりました。

昨年の前回までは、矢野荘、荘園時代の地域自治・住民自治を体現した自律した村落である「惣村」に着目し、そこで結集される「一揆」というものの本質に迫りました。それというのも、これからの矢野の地域づくりにおいて、いや日本全国の地域づくりにおいて地域自治や住民自治は外せないキーワードですし、ご先祖様が築いた「惣村」の共同体自治から何かを学ぼうと考えたからです。

「矢野歴史講座6」で、惣村の主な特徴を6つの切り口であげました。①協議機関-寄合、②規約の制定-惣掟、③共有財産-入会地、④共同作業-普請、⑤年貢納入、⑥抗議行動-一揆、です。終盤の矢野歴史講座では、これら惣村の特徴のいくつかを内容的にどんなであったかを少し見ていきたいと思います。ちなみに⑥の抗議行動-一揆は前回までで終了。

さて、今回は、ぼくが共同体自治の根幹にあると考える「寄合」について見ていきます。寄合は前回とりあげた一揆の作法=起請文の作成や一味神水を行う上でも重要な役割を果たしました。さすがに当時の寄合の様子を示すものは残っていませんが、寄合自体は変化の少ない農村地域ではこの流れを汲んで近年まで続けられてきたと想像できます。

そこで、ムラの寄合の様子がどんなであったかは、民俗学者の宮本常一が著した『忘れられた日本人』(昭和35年、未来社)の中の「対馬にて」が詳しいです。そこには、宮本が戦後間もない長崎県対馬地域に調査で入った時に自ら体験した村の寄合の様子が書かれています。ほんとはその臨場感ある記述を読んでもらうのが一番いいのですが、ここではそういうわけにもいきませんので、要点だけまとめましょう。

宮本が体験した村の寄合は、全員が納得いくまで、無理をせず自然と結論に向けて落ち着くように話し合われています。だから当然、時間もかかり、昼夜問わず何時間も何日間もかけて話し合いがつづきます。かつては家族の者が食事を寄合にもってきていました。話し合いは、一つの議題に対し村びとが自分の体験・経験にことよせてゆったりと転がすように話し合われ、どんなに難しいと思われた議題も大抵は三日で結論が出たようです。このように村びとの代表たちが一丸となり精魂こめて導いた結論に対し、村びとは全員がそれをきっちり遵守します。これが寄合のもつ権威であり、暗黙のルールであったようです。

民俗学の高取正男は、この宮本が語る寄合について、「こうした場でなされる協議はまさしく話し合いのための寄合いであり、手に汗をにぎるような甲論乙駁の筋を追った議論とは正反対のものであった」。そして、寄合の話し合いを連歌に引き寄せ、「ひとつ以上の主題から発した集団の連想の環が、じっくりと腰を落ちつけ、展開するのを味わっているうちに、やがて帰すべきところにもどってゆき、すべてのものの納得のうちに集結する姿は、論理の次元とは別に見事な調和を示している」と述べています(高取、1995、『日本的思考の原型』、p.62)。これこそ寄合の妙味というものでしょうか。

寄合の話し合いの場では、いろんなしがらみの中で、今日のように論理づくめでは収拾のつかないことも少なくはなかったでしょう。そのようなときは、自分たちの体験してきたことにことよせて、誰もが不快にならないように時間をかけ、インターバルをおき、話し合いがなされました。ここに村びと相互の気遣いがみられます。

そして、どうしても話し合いの中で結論にたどりつけない時は、最後に「長に決を託す」という手法がもたれます。それは、毎日顔を突き合わし、互いに助け合っていかなければ生きていけない村落共同体ゆえのことだったのでしょう。つまり、そこには共同体としてのよりよい人間関係の維持を第一に考えていたことが見受けられます。それが寄合における運びの知恵であり、寄合における合意形成の意義といえます。

民主主義の根幹である「熟議」が重要視される今日、このようにかつての村の寄合をみていくと、中世の「惣村」時代から続く寄合はそれこそ日本の民主主義であったと思えてなりません。近代以前から日本にも(日本的な)民主主義はあったのです。しかし、それが近代以降の中央集権国家による社会構造の転換から住民レベルでの自律の民主主義は弱まっていったように思います。


  


Posted by 矢野町交流広場 at 14:02Comments(2)矢野歴史考