2014年10月30日

矢野歴史講座13-村の合意形成と全員一致

前回、村の寄合がどんなだったかを見てきました。寄合こそが地域自治の基盤であると考えるので、この講座の中でも最も描きたかったところです(さらに突っ込んでいうと、その寄合を可能せしめる状態、すなわちメンバーの関係性が重要となります)。
今回は、その寄合の中で行われる村の合意形成についてみていきます。

「合意形成」。これはなかなかくせ者です。なかでも普天間の飛行場移設、諫早湾の開門、鞆の浦の景観、身近にもゴミ処理施設の設置など利害関係が生じる社会的合意形成は、かなり難問です。

ところで、前に一揆のところで出てきた、決め事に対して神の前で誓約する「起請文」には、それに参加した全員の署名がなされ血判がありました。そのことからもわかるように、村の寄合の議決は全員一致の原則のもとにあると考えられてきました。では、ここでいう全員一致とはどういうことでしょうか。

法学の大竹秀男らは村法(村の掟)に「多分につくべきこと」と記され、「多数者が少数者を納得せしめて多数意思に同調せしめたことにより全員一致に導かれた」と、ある意味、多数決の原理が存在したことを指摘しています。「多分につくべきこと」、これを多分の儀といいますが、多分の儀について当時(中世)の寺院の評定集会から少し掘り下げてみましょう。

当時、多分=道理という観念にありました。評定集会の規則では、多数意見に対し少数意見の持ち主が自説にあくまでこだわることを禁じています。集会に参加するメンバー全員(一味同心)は、平等で主体的に意見を述べることができ、正しく投票することを神に誓いました。そこで得られた多数の一致による結果は、神の意志による議決とされ、道理であり正義とされたのでした。このことにより一味同心による決定を全員一致としたのです。


起請文に書かれた「合点(がってん)」(高野山違犯衆起請文)-賛成の方に傍線を入れる
[勝俣鎮夫(1982)『一揆』、p.19]より借用


そう考えると、起請文や村の掟に印される連判は、全員の意見が一致したことを証明するというよりも、一揆の一味神水のように、その決定に対して全員が遵守することを確認する儀式ではなかったかと思うのです。何はともあれ、日本でも近代以前のずっと昔から多数決という原理があったことを見出すことができるのです。

さて、ここで村の寄合に立ち返ってみましょう。前回、宮本常一の体験で見てきたように、村の寄合は、何時間も何日間も時間をかけて話し合うことを旨とし、いくつもの話を転がし転がして、無理なくみんなが納得する結論へと到達するのでした(何らかの自然意思が働くのか)。当然、その過程で多数派と少数派に分かれることはあったでしょう。しかし、村の寄合では、その時間をかけた進行の中に、単純で機械的な多数決ではなく、多数派は少数派に自発的な納得(説得ではない)を促す有機的な意思とそのための努力が注ぎ込まれたことでしょう。こうして得られた決定が、寄合における全員一致であり、いやむしろ全員で作り上げたことから合同一致と呼ぶべきかもしれません。

ここが近代的な会議(たとえば議会)と寄合の違いです。寄合は、討論して片方を論破というよりも、話し合ってまとめる・うまく治めることに重点が置かれます。それは、寄合が共同体による話し合いだからです。私見ですが、共同体は「仲間」という関係でできています。共同体を生きるということは、「仲間」関係を維持し、秩序を保つことが最も重要だったのです。

民俗学の桜井徳太郎は『結集の原理』のなかで、「こうしてつづけられる忍耐強い寄合形態こそ、共同体による議決方式のもっとも典型的な姿を示すものではないか」と述べています(桜井、1985、p.25)。寄合は、伝統的な日本型の合意形成のあり方だといえます。そして、とりもなおさず、寄合は近代以前から民主的で、より人間的であったとみることができます。今、まさに自律した集落や地域、集落自治・地域自治を目指すにあたって求められているのは、この寄合なのだと、ぼくは考えるのです。

最後に、寄合には、会議でも同じですが、大事な暗黙のルールとして平等性があります。寄合では、その構成員全員が平等に発言権をもち十分に議論できなければなりません。宮本常一が見た寄合でも、郷士(ごうし:地域の下級武士)といえども寄合の中では農民と同じように扱われました。そして、寄合の権威により、村の有力者による専制的な意見支配や強圧手段は、もっとも強く非難され、排除されることになります。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 17:49Comments(6)矢野歴史考