2011年10月18日

◆関係性の原風景

今朝の朝日新聞「天声人語」に知識人の一文から、現代を、原子力や携帯が代表するように「科学・技術の進歩に人間がついていけない時代」、「作ったけど使いこなすには至らず、むしろ支配されてしまう状況」と捉え、

『統計数理研究所が続けてきた調査では、「科学技術の発達につれて人間らしさは減る」と思う人が08年に56%いた。過去最高で、半世紀ほど前の2倍という』

という記事が載っていました。


先週から今週にかけてこのブログで矢野町の秋祭りの模様を伝えてきましたが、上の記事を読んで、「人間らしさ」が失われていくと多くの人が感じている現代にあって矢野町は、秋祭りやその前から行われている獅子舞の練習にぼくが触れるなかで、関係性という面からも「日本の原風景」じゃないかという思いをもちました。

里山があり、小河が流れ、田園風景が広がリ、集落がかたまっている。矢野町を訪れば、そんな風景を見るだれもが、弥生時代以降農耕民族である日本人の原風景かな、と思うでしょう。でも、そういう自然、あるいは人工の物的風景だけでなく、村における人間の関係性という面からも原風景が残っているなと思ったのです。具体的にいえば、村の各戸、横のつながりだけでなく、戸を超えた世代間のつながり、縦のつながりです。

秋祭りの前に瓜生の獅子舞の練習を見学させてもらいました。練習場となる公民館には、唐子の幼稚園児・小学生、獅子舞・囃子を担当するその親世代、そしてその上の村の長老たちが顔を揃えていました。また、子どもたちの母親やおばあちゃんも見守ります。つまり、獅子舞の練習会場は村の世代間が交わる場となるんですよね。そんな雰囲気のなかで、総代さんはじめ村の方たちは村の子どもたちを愛情もって時には厳しく指導するんですよね。

あるおじさんが、子どもを名前で呼び、ちょっかいを出したり、「高い高い」をして遊んであげていました。お孫さんかと思ったら全然よそのおじさんだったんですね。そのおじさんだけでなく他の方もそんな感じなんですよね。本当に村の子どもなんです。

かつてどこの農村もそういう感じだったのではないでしょうか。そういう意味で瓜生をはじめ矢野町には日本人の人間の関係性としての原風景が残っているといえます。それこそ失われつつある関係性としての「人間らしさ」が、まだここにはあるということです。貴重です。

そんな矢野町も安泰というわけではありません。二木のある方がおっしゃっていました。「おお、君は〇〇さんとこの子か」と、今では世代間のつながりを確認できる場は、獅子舞の練習のときだけになってしまっていると。昔は獅子舞・お祭り以外にも世代間のつながりを確認し、深める機会があったのでしょう。

それだけに獅子舞やお祭りはますます大事なんですね。しかし、若い人たちはどんどん村を離れ、それらの維持、いや村自体の維持も厳しくなってきています。若い人たちが村を出ていく理由には生活のためにそうせざる終えないという事情もあります。とすれば、今後矢野町が進むべき方向性は明白です。若い人の定住促進です。そのために何をしなければならないのか、ということですね。


関係性の原風景

獅子舞の練習(瓜生)(10/6)





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Posted by 矢野町交流広場 at 13:22│Comments(0)推進員のつぶやき
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