2012年01月26日

◆泰河勝と秦氏と大避神社

昨日の秦河勝三本卒塔婆伝説をもう少し考えてみましょう。

三本卒塔婆伝説では河勝が三濃山に狩りに来ていて伝説の事件に遭遇しますが、実は河勝は狩りではなくて鉱脈を探しに来ていたのだという人もいます。

泰河勝が本当に赤穂・相生に来て矢野の地に足を踏み入れたかどうかは定かではありません。でも、煙のないところに伝説は起きませんので、伝説を漠然と捉えれば何となく見えてくることもあります。

泰河勝は、朝鮮半島(新羅)から集団で日本に渡ってきた秦氏という一族の頭領でした。とすると一族を代表する河勝の足跡は秦氏の行動ととることができると思います。

秦氏は先進的な土木・灌漑技術を日本社会にもたらし、「殖産的氏族」といわれています。さまざまな文化や技術で日本社会の発展に寄与しました。そんな秦氏が三濃山一帯の鉱脈を探し当て鉄を産し鍬や鋤など鉄製の道具を生産していったとしても不思議ではないでしょう。

そんな秦氏の行動を裏付ける証が大避神社です。大避神社は秦氏の氏神で、秦氏という血族集団が、その集団を維持し一族の生活を成り立たせていくための精神的中核をなしました。祭神は泰河勝です。それは後世に日本における一族の発展の基盤を築いたということで神となったのでしょう。

この大避神社が西播磨全域に分布しています。旧赤穂郡内の大避神社に限ってみれば、「赤穂郡神社明細帳」(1879)には21の大避神社が記載されています。『相生市史』ではそれ以外のものも含めて赤穂郡内に分布する大避神社を図示してあります(下図)。当然三濃山にまつられている大避神社も入っています。

泰河勝と秦氏と大避神社
赤穂郡内の大避神社の分布(丸に数字)


このような赤穂郡における大避神社の存在と広がりは、秦氏一族が西播磨・赤穂郡に入ってきてこの地の開発を進めていった証でしょう。

そういう事実を踏まえて、以前書いた『播磨国風土記』の渡来人伝説と照らし合わせたとき、渡来集団の天日鉾とは秦氏ではなかったかと想像するのです。時代的にあっているかわかりませんが。

ちなみに、このあとの秦氏の活躍を上げれば、かの有名な矢野荘の礎となった久富保を開発したのが秦為辰(ためとき)であったし、その祖先が開拓した土地の権利を守ろうとしたのが、秦氏の末裔で播磨の悪党 寺田法念だったわけです。

つまり、矢野という地は飛鳥時代から室町時代まで秦氏を中心に動いてきたといえます。

またまたちなみに、西播磨は秦氏ですが、東播磨を開拓していった渡来氏族は百済系の東漢氏といわれています。


泰河勝と秦氏と大避神社

三濃山にある大避神社





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Posted by 矢野町交流広場 at 15:17│Comments(2)矢野歴史考
この記事へのコメント
ふむふむ、解りやすーい!
興味ある事柄ですので、このシリーズ何度も読み返してます!
若狭野町雨内には、秦氏縁の「お頭」って行事もあるので、余計関心があります。
奈良・飛鳥時代って、古代?ですが、素晴らしい技術を持ってたようで、人力の凄さにいたく感動します。
また、庶民ってどんな暮らししてたんだろう・・・?ってのも、いつも思っちゃうんですよね。
これからも、楽しみに待ってます!
Posted by つつみ at 2012年01月27日 09:17
つつみさん

ありがとうございます。ブログ書いていて、心強いコメントです。

そうですか。若狭野の雨内にそういう行事があるんですね。

このブログは矢野の地域づくりを考えて書いていますが、もともとは矢野と若狭野は一つで、古代には「八野郷」といっていましたからね。だから、今書いている歴史シリーズは若狭野にも関係することですね。

一番気になるのは庶民の暮らしですね。ぼくも同じです。でも、庶民の暮らしはなかなか文書の記録として残らないのでつかむのが難しいです。

それでも中世の矢野荘からは領主の東寺に記録が残されていたので、当時の村落(惣村)の様子が少しわかります。そう、その村落も矢野と若狭野で一つの村落でしたね。

実は、ぼくが一番書きたいのはその村落、農民のことなんですよ。そこまでにはまだ時間がありますね。どうぞ、楽しみにお待ちください。

Posted by 矢野町交流広場 at 2012年01月27日 12:50
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