2014年09月18日

◆矢野再発見セミナー前期第2回開催

9/14、矢野再発見セミナーの前期「矢野谷の寺院と浄土真宗~軍師官兵衛の時代~」の第2回目が矢野公民館で開催され、約40名の参加がありました。今回は、「織田信長、豊臣秀吉の統一事業と矢野地域」ということで、信長と秀吉の天下統一に矢野地域がどのように関わりをもったかをみていきました。

前回のセミナーでは、当時の矢野地域では「惣村」という集落を単位とする共同体自治組織を結成し、荘園領主らの不当な支配から自ら守ってきました。そこへ蓮如の弟子の実如や実円らが播磨に入り、村ぐるみの布教活動を行うことによって集落、地域全体が浄土真宗門徒になっていきました。門徒には、海運や漁民の海民や山民もいました。

播磨での布教の拠点になったのが、英賀御堂です(姫路市英賀)。英賀の地は、当時、寺内町(真宗寺院を中心に発展した町。土塁・堀の防御施設をもち、自治を行う)が形成され、石山本願寺の西の拠点であり自由都市として栄えました。

織田信長は、「天下布武」、全国統一事業の過程で石山本願寺の顕如と対立します。1570年、約10年に及ぶ石山合戦の始まりです。顕如から諸国の門徒に対し軍事動員があります。英賀の三木氏にも出兵要請がありました。その参戦の記録の中に「地侍300人」とあります。

地侍とは、惣村の指導者で乙名(おとな)と呼ばれる有力農民(名主)や沙汰人(さたにん)と呼ばれる荘官の代理人で武士になった者をいいます。つまり、播磨から数百の惣村が石山合戦に参戦しているのが分かります。当然、矢野の集落からも指導者クラスが参戦したことが容易に想像できます。しかし、合戦では多くの死傷者を出し、以後、英賀衆(英賀門徒)は後方支援に徹します。

NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の第10回の放送では、「毛利襲来」いわゆる1577年の英賀の戦いが描かれていました。本願寺と手を組んだ毛利軍が5000の大軍で播磨に上陸します。そのときの拠点(本陣)となったのが英賀御堂です。当然、この英賀の戦いにも毛利・本願寺側として矢野からも何らかの形で参戦しているでしょう。

戦いは、信長勢力の官兵衛側が1000という少ない軍勢ながら、相手が休んでいるところに同じ兵での二度攻撃や自領の農民に幡をもたせ太鼓やホラ貝を鳴らせて後方動員するという官兵衛の戦力を大きく見せる奇策により、毛利軍は勘違いし敗走しました。ということで、矢野は真宗門徒「英賀衆」の一員として官兵衛と敵対し戦ったのでした。矢野の民としては何とも言いがたいですね。

最終的に、1580年3月に信長と顕如が和睦し、石山本願寺は落ち、その後に英賀が攻略されます。英賀御堂は解体され、亀山本徳寺として姫路に移転させられます。その後、秀吉の世になり1582年から90年の太閤検地により、下剋上の一つの要因とされた乙名・沙汰人を廃止して本百姓にもどしました。これが、荘園の解体とともに自治村落「惣村」の解体へとつながっていきます。浄土真宗、英賀を支えた旧矢野荘の惣村も再編成をよぎなくされ、近世江戸時代の農村へと移り変わっていきます。


矢野再発見セミナー前期第2回開催






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