2015年01月21日

◆「矢野再発見セミナー」後期1回目つづき

「矢野再発見セミナー」後期タイトル「矢野荘の残照Ⅰ~赤穂義士の時代~」。第1回目のサブタイトルは「大名・旗本支配と矢野地域」。昨日のつづきで、江戸城松の廊下刃傷事件について少しみていきましょう。

松の廊下で浅野内匠頭長矩が斬りつけた相手、吉良上野介義央(よしひさ)は、高家の筆頭として勤務し(いわゆる名門です)、将軍綱吉の信任を得ていました。高家とは、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職で、またはこの職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指します。つまり、義央は長矩の上司・指導者になるのでしょうか。先生によると、吉良家の菩提寺の名前も花岳寺だとか。何の因果か。

そして、時の将軍綱吉は生類憐みの令などで悪政名高く、別名「犬公方」。綱吉は母桂昌院に女性最高の官位「従二位」の官位を授与するよう朝廷に画策していました。事件のあった1701年(元禄14年)3月14日は、天皇の勅使によって桂昌院に従二位の授与が宣下される予定でした。


午前11時頃、江戸城松の廊下。浅野内匠頭長矩が吉良上野介に斬りかかる。
「この前の遺恨、覚えたるか」。

将軍綱吉、永年の悲願達成の日に江戸城を血でけがされる。
綱吉の処断-長矩の即刻切腹、赤穂藩の改易(領地没収)。

長矩への事情聴取、「遺恨あり」

18時頃、長矩、切腹。


長矩にどんな遺恨があったのでしょう。刃傷の原因は諸説紛々あるようです。その中でも有力なのが、上司・指導役の上野介への賄賂が少なかったことによる不当な扱い→接待の失敗→他(老中)の面前での叱責という屈辱のようです。確かに、元禄期は物価が上昇し貨幣価値が大きく変動するなか、長矩が勅使饗応にかけた費用は他の者と比べても少なかったようです。

ということで、矢野再発見後期セミナーの第1回目はここまで。秀吉以降、赤穂郡・赤穂藩の領主の変遷から矢野地域との関わり、そして松の廊下刃傷事件まで一気にたどった、ワクワク・ドキドキ、大変面白いセミナーでした。この続き、いよいよ討ち入り?、第2回目が楽しみです。次回も多くの方の参加をお待ちしております。


「矢野再発見セミナー」後期1回目つづき
討ち入り装束

「矢野再発見セミナー」後期1回目つづき
討ち入りの映像。ほんとは雪は降っていなかったらしい

「矢野再発見セミナー」後期1回目つづき
石高の説明。石高によって租税や使役の量が決まる





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