2019年01月10日
◆お年賀
新年明けましておめでとうございます。
今日は今年最初の「いきいきサロン」と「お買物同行サービス」の日でした。
年をまたぎ、元気なお顔のみなさんにお会いできて、よかったです。
今年は「平成」から新たな年号に替わる年です。
暮らしやすく生きやすい社会への変革を期待しながらも、
みなさんの日常は平穏な日々であることを願っています。
今年も、サロンとお買物、がんばって続けていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
こ
タグ :年賀状
2018年12月27日
◆三濃山のアカガシ救助活動
三濃山の頂上に立つ神木で、地域の方たちの尽力により瀕死の状態から復活したアカガシの木が、2018年9月頃に倒れてしまいました。
以前、予告したとおり(http://yanochohiroba.tenkomori.tv/e435231.html)、先日12月24日、アカガシの救助活動を行いました。それに伴い、すでに不要となっている水供給タンクの設備を解体する作業も行いました。
活動に参加いただいた方々は、樹木医さん、以前アカガシの復活に携わられた地域の方、元三濃山村の住民、三濃山を信仰されている方など10名で、午前9時半から開始しました。
当日はいいお天気で、三濃山の頂上から瀬戸内海が光って見えます
作業は、不要なった水供給タンク設備を解体し、その部材を利用しアカガシの現在の状態を維持する支えを新たに組みます。
まずはタンク設備の解体作業の様子です。
不要となった黄色いタンクのこの設備がアカガシのすぐ側にあります。景観的にも問題
パイプの解体が進められます。ネジが固い・・・
廃棄物の仕分け等も必要です
解体したパイプを必要な長さに切断します。これも大変
とうとうタンクが地面に下ろされました
解体した部材を一時的に片付けます
アカガシ横のタンク設備が撤去され、スッキリりました
さあ、アカガシの救助です。茎から根は、かつてのみなさんの尽力により地面に届いているので、この状態を維持する支えを新たに作成します(倒れたアカガシを起こすとせっかく伸びた新たな茎が折れてしまう可能性ある)。あとはこのアカガシ自らの生命力にゆだねます。
現状の確認
現状の確認
新しい支柱を作っていきます
根元の支えを考案中
シカが新茎・根を食べないようネットも張ります
アカガシのすぐ側にそびえるツバキが日を遮らないよう少し伐採します
今どうにか保っていた古い支えを新しい支えに置き換えます。この部分が重要
ほぼ出来上がりました
最後にもう一重、アカガシを取り囲むようにネットを巻きます
完成。「アカガシ君、あとは君自身に託すよ。ガンバレ!」
みんなで記念写真
終わったのは、午後4時を回っていました。お疲れ様でした
こ
以前、予告したとおり(http://yanochohiroba.tenkomori.tv/e435231.html)、先日12月24日、アカガシの救助活動を行いました。それに伴い、すでに不要となっている水供給タンクの設備を解体する作業も行いました。
活動に参加いただいた方々は、樹木医さん、以前アカガシの復活に携わられた地域の方、元三濃山村の住民、三濃山を信仰されている方など10名で、午前9時半から開始しました。
当日はいいお天気で、三濃山の頂上から瀬戸内海が光って見えます
作業は、不要なった水供給タンク設備を解体し、その部材を利用しアカガシの現在の状態を維持する支えを新たに組みます。
まずはタンク設備の解体作業の様子です。
不要となった黄色いタンクのこの設備がアカガシのすぐ側にあります。景観的にも問題
パイプの解体が進められます。ネジが固い・・・
廃棄物の仕分け等も必要です
解体したパイプを必要な長さに切断します。これも大変
とうとうタンクが地面に下ろされました
解体した部材を一時的に片付けます
アカガシ横のタンク設備が撤去され、スッキリりました
さあ、アカガシの救助です。茎から根は、かつてのみなさんの尽力により地面に届いているので、この状態を維持する支えを新たに作成します(倒れたアカガシを起こすとせっかく伸びた新たな茎が折れてしまう可能性ある)。あとはこのアカガシ自らの生命力にゆだねます。
現状の確認
現状の確認
新しい支柱を作っていきます
根元の支えを考案中
シカが新茎・根を食べないようネットも張ります
アカガシのすぐ側にそびえるツバキが日を遮らないよう少し伐採します
今どうにか保っていた古い支えを新しい支えに置き換えます。この部分が重要
ほぼ出来上がりました
最後にもう一重、アカガシを取り囲むようにネットを巻きます
完成。「アカガシ君、あとは君自身に託すよ。ガンバレ!」
みんなで記念写真
終わったのは、午後4時を回っていました。お疲れ様でした
こ
2018年01月04日
◆年始のあいさつ
あけましておめでとうございます。
今日は、今年最初のいきいき百歳体操とお買物同行サービスの日でした。
体操のサロンでは、みなさんが笑顔でそれぞれ年始のあいさつをされていて、うれしく思いました。
今年も体操とお買物、元気に続けていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
サロンの日や通勤で矢野を通る時、日々移ろいゆく里山や集落の風景を楽しんでいます。
こ
今日は、今年最初のいきいき百歳体操とお買物同行サービスの日でした。
体操のサロンでは、みなさんが笑顔でそれぞれ年始のあいさつをされていて、うれしく思いました。
今年も体操とお買物、元気に続けていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
サロンの日や通勤で矢野を通る時、日々移ろいゆく里山や集落の風景を楽しんでいます。
こ
タグ :年賀状
2017年08月17日
◆走行距離10万キロ
2017年8月14日、マイカーの走行距離が10万キロになりました。
車体購入から約8年半。矢野町に関わって6年5か月。ほとんどが自宅(太子町)と矢野町の往復で積み上げた距離といえます。
総代会など夜に会議があって1日に2往復したことも幾度となく。地域交通の検討委員会や「おてらdeらいぶ」の実行委員会、キャッサバ生産組合の立上げ会議は深夜まで及び、帰るときにはフロントガラスが凍っていたことも。
ここまでには、事故に遭ったり、故障したり、当て逃げされたり。ほんとに手負いでもよく走ってくれます。マイカーさん、これからもまだまだよろしくお願いしますね!
こ
2017年06月29日
◆当て逃げされた気分の中で思う
月曜日(6/26)に勤務中、私用車で西播磨地域を回っていたら、どうもどこかの駐車場で
当て逃げ(擦り逃げ?)されたらしい。帰宅して気付きました。
左側のフロント部分が擦られただけでなく、ボディも若干ひしゃがってフロントとの接合が微妙にズレてるし、上目ライトは傷ついて少し落ち込んでいる。
フロントだけでもきっちり色を塗り直すと7万円かかるらしい。「そんな余裕ないよー」ということで、磨いてもらうだけにしました。やっぱり深い傷の部分はどうしようもなく、色がはげてるし。気分最悪。
でも、当事者は、社会人として、自律した人間として、誠実で責任ある行動をとってほしいものです。最近、何かで「教育の本分は自律した人間を育てることにある」と読みました。矢野町の地域づくりも以前作成した「ふるさと自立計画」のなかで、「自律した地域の実現を目指し」とうたいます。
「個人の自律」「集団の自律」「住民の自律(=市民)」。「自律」という言葉には、一般論として批判的な見方もあるようですが、ぼくはやっぱり民主主義社会において、あるいはあらためて民主主義を考える上でも重要なキーワードだと思います。特に今の政権を見ていてそう思います。
当て逃げされた気分の中で・・・
こ
当て逃げ(擦り逃げ?)されたらしい。帰宅して気付きました。
左側のフロント部分が擦られただけでなく、ボディも若干ひしゃがってフロントとの接合が微妙にズレてるし、上目ライトは傷ついて少し落ち込んでいる。
フロントだけでもきっちり色を塗り直すと7万円かかるらしい。「そんな余裕ないよー」ということで、磨いてもらうだけにしました。やっぱり深い傷の部分はどうしようもなく、色がはげてるし。気分最悪。
でも、当事者は、社会人として、自律した人間として、誠実で責任ある行動をとってほしいものです。最近、何かで「教育の本分は自律した人間を育てることにある」と読みました。矢野町の地域づくりも以前作成した「ふるさと自立計画」のなかで、「自律した地域の実現を目指し」とうたいます。
「個人の自律」「集団の自律」「住民の自律(=市民)」。「自律」という言葉には、一般論として批判的な見方もあるようですが、ぼくはやっぱり民主主義社会において、あるいはあらためて民主主義を考える上でも重要なキーワードだと思います。特に今の政権を見ていてそう思います。
当て逃げされた気分の中で・・・
こ
2017年06月12日
◆『鵤庄引付』と新たな<契約>発見
先月末、荘園つながりで太子町の鵤荘を歩いたこと報告しました。
今回は、太子町は斑鳩寺に遺る古文書『鵤庄引付』(いかるがのしょうひきつけ)の紹介をしたいと思います。
『鵤庄引付』冒頭部分
『鵤庄引付』は、応永五年(1398)から天文14年(1545)までの約150年間の荘園内で起こった様々な出来事とその時の対応の様子を、政所が書き留めた事務記録です。矢野荘が記載されている世界記憶遺産の『東寺百合文書』には及びませんが、平成24年に国指定重要文化財に指定されています。
今回、太子町歴史資料館によりその現代語訳がなされ、冊子が発行されました。『鵤庄引付-室町・戦国時代の日々-(初稿)』です。興味ある方は資料館で販売しています(600円)。
さて、早速見てみると冒頭の方に「契約」という文字が目に飛び込んできました。原文を見てみると見出しに「契諾」とも書かれ、「契諾 幡州鵤庄政所舎宅并敷地事」、終わりの方に「仍為後代明証、令契約之状 如件、」とあります。
「契約」という言葉は、これまで勉強会や矢野歴史講座で取り上げてきました。もともとは、「売買契約」など現代で使われるような二者間の法的な意味合いではなく、「一揆契約」など共同体や集団のメンバー同士による固い約束を意味したということをお伝えしました(①、②、③)。そして、それは民主主義や合意形成を考える上で、つまり地域(集団)の自律にとって大切なキーワードであると。
歴史家で評論家の故・山本七平もこの「契約」という言葉について、次のように語っています(山本七平『宗教からの提言』2016)。
「コントラクト(contract)という英語の翻訳語ではなく、契約という言葉は、足利時代に盛んに出てくる」
「日本人の場合は、人と人との話し合いが絶対であって、最後に誰かに証人になってもらう、その証人に神を引っ張りだすということは昔からあるわけで、それは先に集団契約があって、その保証に神が出てくる」
「契約」は仲間同士が自分たちで決めた約束(「掟」)であって、その保証人に神がなるということでした。その実際の行為が起請文であったり一味神水であったわけです。(なお、山本七平は、『聖書』ではそれぞれ個人が別々に神と直接契約を結ぶ上下契約であることを指摘しています)。
しかし、今回、『鵤庄引付』に記載される「契約」から私自身新たな発見がありました。『引付』の中に、上の「契諾 幡州鵤庄政所舎宅并敷地事」と題される同じ内容の契約状が二つ記載されています。その内容は難しくて私自身よく分からないのですが、どうも領主である法隆寺と現地鵤荘の政所との間で交わした契約のようなのです。
法隆寺が、ある本供養を執行するのに、鵤荘はそのための費用(年貢や課役)を負担し、もし万が一それを怠れば、法隆寺が鵤荘に無期限で貸している政所の建物と土地を没収するというものです。そして、二つの契約状というのが、内容は同じなのですが、法隆寺と鵤荘それぞれの立場から書かれているのです。法隆寺側が書いたとみられる契約状は、現代語訳で
「ここに賦課される年貢などの諸役や臨時の課役等は、すべて預所が命ずる。定められた諸役等を怠けることがない限り、永代、預けるものである。もし、未進・不法があった時は、速やかにこの政所屋敷等を取り返す。その時、一切言い訳等は聞かない。後代の証拠のため、契約状、件の如し」
一方、鵤荘側が作成したとみられる契約状では、
「ここにかかる年貢などの諸役や臨時の課役等はすべて預所が命じ、その負担をする。(中略)決して不法や懈怠(けたい)があってはならず、請け負った年貢等の未進や懈怠がなければ、永代預けられる。もし、未進や不法があった時は、速やかにこの政所屋敷等は取り返され、その時は決して一言の異議も言いません。すなわち、後代の亀鏡(きけい)のため、契約状、件の如し」
ちなみに、「未進」は年貢などの税を進上しないこと、納めないこと。「亀鏡」はよりどころとなる規範、証拠です。法隆寺側は、「永代預ける」「政所屋敷等を取り返す」「一切言い訳を聞かない」。鵤荘側は、「永代預けられる」「政所屋敷等は取り返される」「一言の異議も言いません」。なんか面白いですね。
ここから分かることが二つあります。この「契約(契諾)」は集団契約ではなく、二者間の契約であること。そして、その契約状が二者それぞれの立場から作成されていること。驚きでした。これまで知っている契約は、一揆契約などメンバー同士の契約(約束)であり、メンバー全員による連判がなされているもので、この頃の「契約」は集団契約だけだと勝手に思っていました。果たして、これは一般的なことなのか、鵤荘の特殊な事例なのか。今度専門家に聞いていみよう。
こ
今回は、太子町は斑鳩寺に遺る古文書『鵤庄引付』(いかるがのしょうひきつけ)の紹介をしたいと思います。
『鵤庄引付』冒頭部分
『鵤庄引付』は、応永五年(1398)から天文14年(1545)までの約150年間の荘園内で起こった様々な出来事とその時の対応の様子を、政所が書き留めた事務記録です。矢野荘が記載されている世界記憶遺産の『東寺百合文書』には及びませんが、平成24年に国指定重要文化財に指定されています。
今回、太子町歴史資料館によりその現代語訳がなされ、冊子が発行されました。『鵤庄引付-室町・戦国時代の日々-(初稿)』です。興味ある方は資料館で販売しています(600円)。
さて、早速見てみると冒頭の方に「契約」という文字が目に飛び込んできました。原文を見てみると見出しに「契諾」とも書かれ、「契諾 幡州鵤庄政所舎宅并敷地事」、終わりの方に「仍為後代明証、令契約之状 如件、」とあります。
「契約」という言葉は、これまで勉強会や矢野歴史講座で取り上げてきました。もともとは、「売買契約」など現代で使われるような二者間の法的な意味合いではなく、「一揆契約」など共同体や集団のメンバー同士による固い約束を意味したということをお伝えしました(①、②、③)。そして、それは民主主義や合意形成を考える上で、つまり地域(集団)の自律にとって大切なキーワードであると。
歴史家で評論家の故・山本七平もこの「契約」という言葉について、次のように語っています(山本七平『宗教からの提言』2016)。
「コントラクト(contract)という英語の翻訳語ではなく、契約という言葉は、足利時代に盛んに出てくる」
「日本人の場合は、人と人との話し合いが絶対であって、最後に誰かに証人になってもらう、その証人に神を引っ張りだすということは昔からあるわけで、それは先に集団契約があって、その保証に神が出てくる」
「契約」は仲間同士が自分たちで決めた約束(「掟」)であって、その保証人に神がなるということでした。その実際の行為が起請文であったり一味神水であったわけです。(なお、山本七平は、『聖書』ではそれぞれ個人が別々に神と直接契約を結ぶ上下契約であることを指摘しています)。
しかし、今回、『鵤庄引付』に記載される「契約」から私自身新たな発見がありました。『引付』の中に、上の「契諾 幡州鵤庄政所舎宅并敷地事」と題される同じ内容の契約状が二つ記載されています。その内容は難しくて私自身よく分からないのですが、どうも領主である法隆寺と現地鵤荘の政所との間で交わした契約のようなのです。
法隆寺が、ある本供養を執行するのに、鵤荘はそのための費用(年貢や課役)を負担し、もし万が一それを怠れば、法隆寺が鵤荘に無期限で貸している政所の建物と土地を没収するというものです。そして、二つの契約状というのが、内容は同じなのですが、法隆寺と鵤荘それぞれの立場から書かれているのです。法隆寺側が書いたとみられる契約状は、現代語訳で
「ここに賦課される年貢などの諸役や臨時の課役等は、すべて預所が命ずる。定められた諸役等を怠けることがない限り、永代、預けるものである。もし、未進・不法があった時は、速やかにこの政所屋敷等を取り返す。その時、一切言い訳等は聞かない。後代の証拠のため、契約状、件の如し」
一方、鵤荘側が作成したとみられる契約状では、
「ここにかかる年貢などの諸役や臨時の課役等はすべて預所が命じ、その負担をする。(中略)決して不法や懈怠(けたい)があってはならず、請け負った年貢等の未進や懈怠がなければ、永代預けられる。もし、未進や不法があった時は、速やかにこの政所屋敷等は取り返され、その時は決して一言の異議も言いません。すなわち、後代の亀鏡(きけい)のため、契約状、件の如し」
ちなみに、「未進」は年貢などの税を進上しないこと、納めないこと。「亀鏡」はよりどころとなる規範、証拠です。法隆寺側は、「永代預ける」「政所屋敷等を取り返す」「一切言い訳を聞かない」。鵤荘側は、「永代預けられる」「政所屋敷等は取り返される」「一言の異議も言いません」。なんか面白いですね。
ここから分かることが二つあります。この「契約(契諾)」は集団契約ではなく、二者間の契約であること。そして、その契約状が二者それぞれの立場から作成されていること。驚きでした。これまで知っている契約は、一揆契約などメンバー同士の契約(約束)であり、メンバー全員による連判がなされているもので、この頃の「契約」は集団契約だけだと勝手に思っていました。果たして、これは一般的なことなのか、鵤荘の特殊な事例なのか。今度専門家に聞いていみよう。
こ
2017年01月05日
◆年賀状-新年のご挨拶
あけましておめでとうございます。
今日は、今年最初の「いきいき百歳体操」と「お買物同行サービス」でした。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年の年賀状の写真は、感状山から矢野町を撮った写真です。三濃山が相生市全体なら感状山は矢野町がすぐ近くに俯瞰できます。それほど高くない山が点在し、その下には堆積された平野が見てとれます。町の真ん中を太古からの自然・矢野川が流れ、それにある所でクロスして現代の人工物・テクノラインが走っています。
感状山城(跡)という歴史的に重要な遺産(赤松円心の三男赤松則祐が築き、新田義貞の追討から足利尊氏を守り、その功績からその名が付いた)が立つ山上から、矢野町を眺める。専門家によるとこの位置は、真東に権現山(神山)がそびえ、磐座神社があり、政治的にも権威を示す上でも重要な位置だったようです。
タイトルの「矢野・トポグラフィックス」は、1970年代にアメリカで起こった風景写真の新たな潮流「ニュー・トポグラフィックス」を意識して付けています。「トポグラフィックス」は、ギリシャ語の「場」を意味するトポスと画法などを意味するグラフィックスの造語です。「ニュー・トポグラフィックス」では、これまでのような自然美をたたえる風景写真ではなく、その「場」の中に存立する新興工業団地や工業建築物など人工物を客観的に距離感をもって捉えています。新たな写真表現として文明や共同体に潜む時代(時間)や場所(空間)の様相を指摘し、現代のあり方を問います。
感状山という重要な位置にある山に立ち、矢野町の今後のあり方や地域づくりを想う。観念ではなく事象を直観し人間の経験からその意味を捉える「現象学」という哲学のスタンスによって。
(なんか新年から堅苦しくなってしまった)
こ
2016年06月02日
◆山陽道を歩こう(その2)の2
4/10に行われた「山陽道を歩こう(その2)」太子町鵤から姫路のつづきです。
昼休憩の後、青山の稲岡神社から出発しました。
船板を使った珍しい塀
青山の道標 (正)円光大師二十五霊場美作国道 (1855)
夢前川を渡ります。このときは桜も終わりかけ、若者が最後の花見をしていました
夢前川を渡って龍野藩から姫路藩へ。金比羅灯籠(1827)。一里塚跡もあります
下手野の道標(1767) 円光大師二十五霊場 右 みまさか 左 たつの道
高岳神社丁石(1870) 北在 五丁
少し離れた所にも式内高岳神社丁石が(昭和7年)
題目石 (正)南無妙法連華経日蓮大菩薩 (1681)
表忠碑の道標 (1879)
姫路にある「龍野町」の古い建物の前を通って
車橋の碑 昔は川だった
やっと船場本徳寺(明治天皇行在所)までたどり着きました
前出の表忠碑は現在、本徳寺の中にあります
また、第1次世界大戦?時の捕虜が故郷を懐かしんで作った石造のお城も
西二階町を歩いて大手前通りまで来ました。もうくたくたです(疲)
相生から姫路まで2日に分けて、道標や石碑などを辿りながら大名行列や江戸時代の人が歩いた山陽道(西国街道)を歩くイベント、ようやく終了です。昔の人は健脚だったのね。西播磨でツーデーマーチできないかな?
こ
昼休憩の後、青山の稲岡神社から出発しました。
船板を使った珍しい塀
青山の道標 (正)円光大師二十五霊場美作国道 (1855)
夢前川を渡ります。このときは桜も終わりかけ、若者が最後の花見をしていました
夢前川を渡って龍野藩から姫路藩へ。金比羅灯籠(1827)。一里塚跡もあります
下手野の道標(1767) 円光大師二十五霊場 右 みまさか 左 たつの道
高岳神社丁石(1870) 北在 五丁
少し離れた所にも式内高岳神社丁石が(昭和7年)
題目石 (正)南無妙法連華経日蓮大菩薩 (1681)
表忠碑の道標 (1879)
姫路にある「龍野町」の古い建物の前を通って
車橋の碑 昔は川だった
やっと船場本徳寺(明治天皇行在所)までたどり着きました
前出の表忠碑は現在、本徳寺の中にあります
また、第1次世界大戦?時の捕虜が故郷を懐かしんで作った石造のお城も
西二階町を歩いて大手前通りまで来ました。もうくたくたです(疲)
相生から姫路まで2日に分けて、道標や石碑などを辿りながら大名行列や江戸時代の人が歩いた山陽道(西国街道)を歩くイベント、ようやく終了です。昔の人は健脚だったのね。西播磨でツーデーマーチできないかな?
こ
2016年05月30日
◆山陽道を歩こう(その2)の1
相生から姫路まで、江戸時代の山陽道を歩こう。4/10に前回の続きで太子町の鵤宿から姫路の大手前通りまで約15kmを歩きました。今回は姫路のケーブルテレビが取材に来られていましたよ。
太子町の街道沿いは昔ながらの造りがほとんど無くなっています。その中で貴重です
少し寄道して太田小学校の脇にある、聖徳太子が檀特山から投げたという鵤荘の牓示石
この辺りで一番古い太田の地蔵
黒岡神社の鳥居
廻国供養塔・額田部連伊勢塚
原村庄屋屋敷
ここにも明治天皇小休所が(太子町山田)
道標発見 右 おか山 左 ひめじ
青山へ抜ける山田峠。舗装道からわざと脇の山道へ 当時の街道気分
少し寄り道。黒田官兵衛と赤松軍の決戦の場(青山)
宗全寺跡・薬師堂
大きな鳥居をくぐって
稲岡神社でお昼休憩です
愛嬌のある狛犬
今は兵庫県の歴史博物館にあるここの絵馬が先日の伊勢志摩サミットに展示されたそうです
つづく・・・
こ
太子町の街道沿いは昔ながらの造りがほとんど無くなっています。その中で貴重です
少し寄道して太田小学校の脇にある、聖徳太子が檀特山から投げたという鵤荘の牓示石
この辺りで一番古い太田の地蔵
黒岡神社の鳥居
廻国供養塔・額田部連伊勢塚
原村庄屋屋敷
ここにも明治天皇小休所が(太子町山田)
道標発見 右 おか山 左 ひめじ
青山へ抜ける山田峠。舗装道からわざと脇の山道へ 当時の街道気分
少し寄り道。黒田官兵衛と赤松軍の決戦の場(青山)
宗全寺跡・薬師堂
大きな鳥居をくぐって
稲岡神社でお昼休憩です
愛嬌のある狛犬
今は兵庫県の歴史博物館にあるここの絵馬が先日の伊勢志摩サミットに展示されたそうです
つづく・・・
2016年05月26日
◆山陽道を歩こう(その1)
少し前のことになりますが、太子町歴史資料館の主催で現地見学会「山陽道を歩こう」と題して、江戸時代の山陽道を相生から姫路まで2回に分けて歩きました。この山陽道は都と九州を結び多くの諸大名が行き来した街道です。
3/27に行われた1回目は、相生から歴史資料館のある太子町鵤まで歩きました。約15km。最後の方、疲れました。
相生駅から出発です
駅を南に少し下って、陸本町に道標があります
(正面)「是より右さいこくみち」 (左)「是より左あ加本城下みち」
実はこのこんもりとしたところが古墳「赤坂古墳」
今は新興住宅街のここが街道だったなんて。昔はただの山だったんですね
那波野にある神戸若宮神社(子安神社)。ここは赤穂藩ではなく龍野藩の揖保郡
若宮神社から見える景色
神社を出て少し北へ行くと田んぼの中にある塚森古墳
河本光先生と書かれた石碑
たつの市揖保川町に入って、片島宿の本陣跡
本陣跡のすぐ斜め向かいにある了福寺。この門構えは実は本陣のもの
石仏石碑(圓尾幸蔵)
昼食は街道を離れ神戸神社でとりました。石柱の左には「なくはず宮」と書かれています
街道に戻り少し歩くと正條宿。ここも本陣跡で明治天皇が泊られました
郵便局のところにある正條の道標。正面に「右ひ免ぢかうべ」「左た津の山さき」
揖保川。昔は渡しがあったのだけど、今は橋を渡ります。かなり古い橋げた
揖保川を渡った辺りから疲れてきました。揖保村の道路元標。埋まっています
京都の大徳寺(臨済宗)を開山した大燈国師生誕の地 宝林寺
江戸時代、播磨で数少ない一揆を主導した弥右衛門を顕彰した石碑
林田川を渡って太子町へ。下阿曽にある茶屋垣内の地蔵
阿宗神社丁石。 (正)式内 阿宗神社 (右)従是北八丁廣山村鎮座
このあと本日終了となる鵤宿に入りますが、疲れていたのか写真を撮っていません
街道沿いには、斑鳩寺常夜灯や北向き地蔵、斑鳩村道路元標などがあります
かつて本陣もありました
2回目は4/10に太子町鵤から姫路の大手前通りまで歩きました。
こ
3/27に行われた1回目は、相生から歴史資料館のある太子町鵤まで歩きました。約15km。最後の方、疲れました。
相生駅から出発です
駅を南に少し下って、陸本町に道標があります
(正面)「是より右さいこくみち」 (左)「是より左あ加本城下みち」
実はこのこんもりとしたところが古墳「赤坂古墳」
今は新興住宅街のここが街道だったなんて。昔はただの山だったんですね
那波野にある神戸若宮神社(子安神社)。ここは赤穂藩ではなく龍野藩の揖保郡
若宮神社から見える景色
神社を出て少し北へ行くと田んぼの中にある塚森古墳
河本光先生と書かれた石碑
たつの市揖保川町に入って、片島宿の本陣跡
本陣跡のすぐ斜め向かいにある了福寺。この門構えは実は本陣のもの
石仏石碑(圓尾幸蔵)
昼食は街道を離れ神戸神社でとりました。石柱の左には「なくはず宮」と書かれています
街道に戻り少し歩くと正條宿。ここも本陣跡で明治天皇が泊られました
郵便局のところにある正條の道標。正面に「右ひ免ぢかうべ」「左た津の山さき」
揖保川。昔は渡しがあったのだけど、今は橋を渡ります。かなり古い橋げた
揖保川を渡った辺りから疲れてきました。揖保村の道路元標。埋まっています
京都の大徳寺(臨済宗)を開山した大燈国師生誕の地 宝林寺
江戸時代、播磨で数少ない一揆を主導した弥右衛門を顕彰した石碑
林田川を渡って太子町へ。下阿曽にある茶屋垣内の地蔵
阿宗神社丁石。 (正)式内 阿宗神社 (右)従是北八丁廣山村鎮座
このあと本日終了となる鵤宿に入りますが、疲れていたのか写真を撮っていません
街道沿いには、斑鳩寺常夜灯や北向き地蔵、斑鳩村道路元標などがあります
かつて本陣もありました
2回目は4/10に太子町鵤から姫路の大手前通りまで歩きました。
こ
タグ :山陽道
2016年04月27日
◆鰯浜遊歩道から万葉の岬へ
今日は1日雨ですが、先週の水曜日(4/20)はすごくお天気がよく、いきいきネットのメンバーで相生市の海側、鰯浜遊歩道から金ヶ崎万葉の岬まで歩きました。
すごく眺めも心地もよく、ゆっくりと約1時間の散策コースです。
鰯浜、ここから出発です
まな板岩だっけ? 何かを燃やしたのか真っ黒け
海岸線を歩きます
カキの養殖の向こうにポコっとおわん島
山の緑がきれいです
珍しい植物だそう。名前を聞いたのだけど忘れてしまった
正面に見えるは君島
では、ここから万葉の岬まで登っていいきます
「魚つき保安林」って?
こちらを参照
うわっきれい
左に君島
右におわん島
もうあと少し
到着です
「万葉の岬」の説明
いい眺め。海と空が同じ色
黒椿もまだ見れました
島がつながっている
上からの君島
普段は矢野で三濃山や感状山、山側の散策が多いけど、この日は海側のウォーキングを楽しみました。相生市は山から海まで多様さがコンパクトにつまっていて気軽に自然や歴史ツーリングが楽しめる魅力あるまちだと思いました。
こ
すごく眺めも心地もよく、ゆっくりと約1時間の散策コースです。
鰯浜、ここから出発です
まな板岩だっけ? 何かを燃やしたのか真っ黒け
海岸線を歩きます
カキの養殖の向こうにポコっとおわん島
山の緑がきれいです
珍しい植物だそう。名前を聞いたのだけど忘れてしまった
正面に見えるは君島
では、ここから万葉の岬まで登っていいきます
「魚つき保安林」って?
こちらを参照
うわっきれい
左に君島
右におわん島
もうあと少し
到着です
「万葉の岬」の説明
いい眺め。海と空が同じ色
黒椿もまだ見れました
島がつながっている
上からの君島
普段は矢野で三濃山や感状山、山側の散策が多いけど、この日は海側のウォーキングを楽しみました。相生市は山から海まで多様さがコンパクトにつまっていて気軽に自然や歴史ツーリングが楽しめる魅力あるまちだと思いました。
こ
2016年04月19日
◆感状山ハイクとお姫様伝説
これも先月のこと。
3/28に相生いきいきネットのメンバーと感状山に登りました。感状山は2回目です。瓜生の八柱神社の脇から「バクの道」を通って登りました。
瓜生の八柱神社
この頃は、境内の桜はまだ蕾でしたね
つつじの紫が目に留まります
木のトンネル(お気に入り)
物見岩まで来ました
矢野の集落と山桜のコラボ この時しか見れないね
さて、今回、登山の目的は、感状山城落城の時のお姫様伝説をたどること。
秀吉が中国を攻めた時(1577)の城主は赤松則房。則房には二人の姫がいた。戦の負けを悟った姉姫は日ごろから可愛がっていた金色の羽をした鶏を抱いて、城内の井戸に身を投じて死んだという。それから、毎年正月に感状山の井戸付近から鶏の鳴き声が村人に聞こえたという。
ということで、その井戸を探しました。一つは大手門付近にあるようですが、ちょっと行けなさそうだったのでそこは断念し、もう一つの出曲輪の脇道を入ったところにあるらしい井戸を探しました。最初、行き過ぎてしまいましたが、安心してください、ちゃんとありました。
果たしてここに身を投げたのでしょうか。それとももう一つの井戸か・・・
帰りは階段から羅漢さんに降りました
では、妹姫はどうなったのか。妹姫は落城寸前に城を逃れ、麓の森集落の藤堂家で大切に育てられ、心のやさしいお姫様として一生を送られたそう。姫の死後、藤堂家の女性は美人ばかりが生まれ、これは姫の感謝が天に通じたためと伝えられています。
ということで、森集落に藤堂という小字があって、そこにお屋敷の跡らしい石垣があるというので行ってみました。
なるほど石垣が。地の人が言うには棚田ではなさそう
ここにお屋敷があって、妹姫はここで過ごしたのか。想像が膨らみます
側に「感状 藤堂 山城跡」という石碑がありました
裏に郷土史家の小林楓村氏の名前がありました
こ
3/28に相生いきいきネットのメンバーと感状山に登りました。感状山は2回目です。瓜生の八柱神社の脇から「バクの道」を通って登りました。
瓜生の八柱神社
この頃は、境内の桜はまだ蕾でしたね
つつじの紫が目に留まります
木のトンネル(お気に入り)
物見岩まで来ました
矢野の集落と山桜のコラボ この時しか見れないね
さて、今回、登山の目的は、感状山城落城の時のお姫様伝説をたどること。
秀吉が中国を攻めた時(1577)の城主は赤松則房。則房には二人の姫がいた。戦の負けを悟った姉姫は日ごろから可愛がっていた金色の羽をした鶏を抱いて、城内の井戸に身を投じて死んだという。それから、毎年正月に感状山の井戸付近から鶏の鳴き声が村人に聞こえたという。
ということで、その井戸を探しました。一つは大手門付近にあるようですが、ちょっと行けなさそうだったのでそこは断念し、もう一つの出曲輪の脇道を入ったところにあるらしい井戸を探しました。最初、行き過ぎてしまいましたが、安心してください、ちゃんとありました。
果たしてここに身を投げたのでしょうか。それとももう一つの井戸か・・・
帰りは階段から羅漢さんに降りました
では、妹姫はどうなったのか。妹姫は落城寸前に城を逃れ、麓の森集落の藤堂家で大切に育てられ、心のやさしいお姫様として一生を送られたそう。姫の死後、藤堂家の女性は美人ばかりが生まれ、これは姫の感謝が天に通じたためと伝えられています。
ということで、森集落に藤堂という小字があって、そこにお屋敷の跡らしい石垣があるというので行ってみました。
なるほど石垣が。地の人が言うには棚田ではなさそう
ここにお屋敷があって、妹姫はここで過ごしたのか。想像が膨らみます
側に「感状 藤堂 山城跡」という石碑がありました
裏に郷土史家の小林楓村氏の名前がありました
こ
2016年04月15日
◆近畿自然歩道-小野豆から瓜生大池へ2
上郡の小野豆から瓜生大池へ抜ける近畿自然歩道ウォーキングの続きです。
小河から瓜生へ山を越えます。
小河のメイン道路を少し北に行って、脇に入ります
瓜生の八柱神社まで1.6kmだから大池までは1.3kmぐらいでしょうか
お花に見送られて登っていきます
階段が付いていますが、かなり急で、シンドイ
峠のお地蔵さんにごあいさつ
山水の流れが林道に沿って変わり、道が荒れています
階段も
もうすぐで大池に出ます
池の水は澄んでいてきれいです
このときは梅ですね
大池の下までたどり来ました。お疲れ様でした
後日談
次の日、お尻の上あたりが痛くて。小野豆から小河の下り、ずんずん行き過ぎて、思ったより腰に負担が掛かっていたのね。
こ
小河から瓜生へ山を越えます。
小河のメイン道路を少し北に行って、脇に入ります
瓜生の八柱神社まで1.6kmだから大池までは1.3kmぐらいでしょうか
お花に見送られて登っていきます
階段が付いていますが、かなり急で、シンドイ
峠のお地蔵さんにごあいさつ
山水の流れが林道に沿って変わり、道が荒れています
階段も
もうすぐで大池に出ます
池の水は澄んでいてきれいです
このときは梅ですね
大池の下までたどり来ました。お疲れ様でした
後日談
次の日、お尻の上あたりが痛くて。小野豆から小河の下り、ずんずん行き過ぎて、思ったより腰に負担が掛かっていたのね。
こ
2016年04月15日
◆近畿自然歩道-小野豆から瓜生大池へ1
最近、何度か林道や旧街道を歩く機会があって、けっこう楽しいです。
少し前になりますが、3/16、矢野にいて前から一度歩いてみたかった瓜生大池から小河を通ってお隣上郡の小野豆へ抜ける近畿自然歩道を歩きました。今回は、小河の自治会長さんに車で送ってもらって、小野豆から瓜生へ抜けました。4キロちょっとのコースです。
小野豆は平家の落人伝説で有名です。姫上線から車でかなり山奥へ登っていきます。こんなところに集落が・・・すごい
(画像をクリックすると大きくなります)
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公民館の向かいの山道を入っていきます
小野豆集落
小野豆はすでに高い位置にあるので、こちらから矢野への方が楽かな
少し行ったところに須賀神社がありました
まずは小河の宇麻志神社を目指します
道沿いにいろんな石碑や地蔵さんがあります
よく道が手入れされており歩きやすいです
幹がねじれた奇妙な木を発見
下りです。どんどん行きましょう
宇麻志神社まで0.6km
小河の村が見えてきました
宇麻志神社を後にします
つづく
こ
少し前になりますが、3/16、矢野にいて前から一度歩いてみたかった瓜生大池から小河を通ってお隣上郡の小野豆へ抜ける近畿自然歩道を歩きました。今回は、小河の自治会長さんに車で送ってもらって、小野豆から瓜生へ抜けました。4キロちょっとのコースです。
小野豆は平家の落人伝説で有名です。姫上線から車でかなり山奥へ登っていきます。こんなところに集落が・・・すごい
(画像をクリックすると大きくなります)
せっかく小野豆に来たのだから平家が隠れていたという洞窟を観ておきましょう。
ジャンジャン穴というそうです。その云われは下記を
ジャンジャン穴というそうです。その云われは下記を
(画像をクリックすると大きくなります)
公民館の向かいの山道を入っていきます
小野豆集落
小野豆はすでに高い位置にあるので、こちらから矢野への方が楽かな
少し行ったところに須賀神社がありました
まずは小河の宇麻志神社を目指します
道沿いにいろんな石碑や地蔵さんがあります
よく道が手入れされており歩きやすいです
幹がねじれた奇妙な木を発見
下りです。どんどん行きましょう
宇麻志神社まで0.6km
小河の村が見えてきました
宇麻志神社を後にします
つづく
こ
2016年03月22日
◆「犬塚」周辺のゴミの状況確認
明日23日、「犬塚」周辺の清掃活動を行うのにあたり、18日の三濃山の帰りにゴミの状況を確認してきました。
一時よりゴミが少なくなったとはいえ、1年経つとやはりテクノ線ののり面には生活ゴミなどが廃棄してありました。みなさま、明日の清掃活動よろしくお願いします。
「犬塚」下の公園は枯れ草がいっぱい。これも刈らないと
こ
一時よりゴミが少なくなったとはいえ、1年経つとやはりテクノ線ののり面には生活ゴミなどが廃棄してありました。みなさま、明日の清掃活動よろしくお願いします。
「犬塚」下の公園は枯れ草がいっぱい。これも刈らないと
こ
2016年02月02日
◆とんどの立て方(瓜生)
1月に各集落でとんどが行われました。
先日、瓜生の方が瓜生のとんどの立て方を動画に撮られていて、それを切り取った写真をいただきましたのでここで紹介します。
7本竹を束ねて上部を縛ります
縛ったところから縄を垂らし引っ張ります
竹の下部を支点に縄を引っ張っておこします
がんばれ
やったー。置き上がりました
7本の竹の足を広げて整えます
こ
先日、瓜生の方が瓜生のとんどの立て方を動画に撮られていて、それを切り取った写真をいただきましたのでここで紹介します。
7本竹を束ねて上部を縛ります
縛ったところから縄を垂らし引っ張ります
竹の下部を支点に縄を引っ張っておこします
がんばれ
やったー。置き上がりました
7本の竹の足を広げて整えます
こ
タグ :とんど
2016年01月08日
◆今昔物語「三濃山のアカガシ」-相生市連合自治会広報誌より
年2回、相生市連合自治会の広報誌が相生市の全戸に向けて発行されています。その中に市内地域の「今」と「昔」を語る「今昔物語」というシリーズ記事があります。
今回、新年号で矢野町から書かせていただく機会がありました。それで、矢野町からの第1弾として多くの方がその復活に携わった三濃山の頂上に立つアカガシ(赤樫)について書かせていただきました。
相生市内の方のみならず多くの方に知っていただきたいのでその記事をアップさせていただきます。どうぞご覧ください。
(画像をクリックすると大きくなります)
こ
なお、アカガシのノートにつづられた多くの思いが消えてしまわないように、現在デジタル化しようとしています。
今回、新年号で矢野町から書かせていただく機会がありました。それで、矢野町からの第1弾として多くの方がその復活に携わった三濃山の頂上に立つアカガシ(赤樫)について書かせていただきました。
相生市内の方のみならず多くの方に知っていただきたいのでその記事をアップさせていただきます。どうぞご覧ください。
(画像をクリックすると大きくなります)
こ
なお、アカガシのノートにつづられた多くの思いが消えてしまわないように、現在デジタル化しようとしています。
2016年01月05日
◆年賀状ーご挨拶
新年明けましておめでとうございます
今日、仕事始めです
この3月で、ぼくが矢野町に自律した地域づくりのサポーター役(コミュニティ推進員、アドバイザー、支援員)で関わって丸5年になります。あらためて、もうそんなになるんだぁて思いとちょっと長いなぁって気もします。
年末に連合自治会の忘年会に参加させていただきました。各単位自治会の会長さんたちと話していて、14集落ある中で当初の会長さんが残っておられる集落が3集落だけで、ほとんどの集落が代われているのに気付きました。会長さんたちよりも長い…
たぶんまちづくり推進委員会の事務補助としての支援員は、この辺りで一区切りとする時期に来ているのかなと思ったりもします。ただ、いきいき百歳体操を始めとするコミュニティ福祉事業の運営の事もありますし、矢野町と縁が切れるわけでもありません。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
こ
タグ :年賀状
2015年12月24日
◆朝日新聞に「矢野荘」の記事
12月22日、朝日新聞の地域面(はりま)にある「はりま歴史探訪」というシリーズで「矢野荘」が取り上げられていました。
先日、世界記憶遺産に登録された「東寺百合文書」に触れ、その中に書かれている矢野荘の百姓の行動が紹介してあります。矢野町や地域のみなさんにとって私が最も着目するところでもあります。よくぞ取り上げてくださいました。若狭野町下土井の大避神社で行われた十三日講という寄り合いについても書かれています。
先月あった馬田綾子先生の記念講演にも触れ、先生の「荘園の人々の生活の息吹を文書から感じることができる」というコメントが載せられています。そして、その当時政所のあったあたり(下土井)で生まれ育ったという元相生市長の藤田氏は「昔の人々の暮らしぶりに改めて関心がわいてきた」と話されています。
そう、地域のみなさんには大いに関心を持っていただけたらなと思います。地域の自律と地域自治がいっぱいつまった矢野荘に。そして、現代へと繋げ
(画像をクリックすると大きくなります)
こ
先日、世界記憶遺産に登録された「東寺百合文書」に触れ、その中に書かれている矢野荘の百姓の行動が紹介してあります。矢野町や地域のみなさんにとって私が最も着目するところでもあります。よくぞ取り上げてくださいました。若狭野町下土井の大避神社で行われた十三日講という寄り合いについても書かれています。
先月あった馬田綾子先生の記念講演にも触れ、先生の「荘園の人々の生活の息吹を文書から感じることができる」というコメントが載せられています。そして、その当時政所のあったあたり(下土井)で生まれ育ったという元相生市長の藤田氏は「昔の人々の暮らしぶりに改めて関心がわいてきた」と話されています。
そう、地域のみなさんには大いに関心を持っていただけたらなと思います。地域の自律と地域自治がいっぱいつまった矢野荘に。そして、現代へと繋げ
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こ
2015年11月09日
◆祝 世界記憶遺産登録の横断幕
先日、造船に目をつけ今日の相生の礎を築いた「唐端清太郎と相生の発展」という展示を観に市立図書館に行った折、「東寺百合文書」が世界記憶遺産に登録されたことを祝う横断幕が歴史民俗資料館に掲示されていました。
11/14(土)〜12/6(日)まで図書館で「東寺と矢野荘のかかわり -東寺百合文書に見る矢野荘ー」と題した写真パネル等の展示があります。また、11月21日(土)には馬田綾子先生(梅花女子大学名誉教授)の講演会「東寺百合文書から見る矢野荘のくらし」が13時半からあります。今から楽しみです。
こ
11/14(土)〜12/6(日)まで図書館で「東寺と矢野荘のかかわり -東寺百合文書に見る矢野荘ー」と題した写真パネル等の展示があります。また、11月21日(土)には馬田綾子先生(梅花女子大学名誉教授)の講演会「東寺百合文書から見る矢野荘のくらし」が13時半からあります。今から楽しみです。
こ