2011年09月06日

源重郎池2

源重郎さんをはじめとする小河の人たち先人が苦労して築いた源重郎池。それは今でも私たちに恵みをもたらしてくれています。

こうして築造され、修理されてきた源重郎池ですが、時の代官や幕府勘定奉行は源重郎さんに対して幾度となく、「自分入用(私財)を以、溜池壱ヶ所取立候」ことは「奇特之儀に付御褒美として銀三枚」というように褒美を遣わせています。また、小河の人たちに対しても庄屋の曾平に「隣郷えも余水分け遣候様骨折世話いたし候段、厚く誉置」くと申し渡しています。

このことに対して、『相生市史』では以下のような見解を示しています。長文ですが重要なポイントですので記します。

  「源重郎池の築造や修築事業に対し、歴代の代官や幕府勘定奉行がこれを称賛し、源重郎や小河村名主などに褒美まで遣わしている点は、この事業の一つの特徴といってよい。これらのことを考慮すると、この築池事業は、代官などの領主階級の奨励にもとづいておこなわれたのではないかと推察することもできる。(中略)

本来領主階級は、主体的に灌漑施設の整備に取り組まねばならない筈であった。江戸時代には、村内にある小規模な堤防や橋梁の掛替などは村の自普請によるのが原則ではあったが、「池所の池」のような用水溜池の構築は、村による自普請の範囲を超えたものであり、領主の積極的な施策(普請費用の負担)のもとに実施されるべきであった。領主がそれに対して消極的であるかぎり、旱損場を救うことはできない。

源重郎を中心とする小河村農民は代官たちの施策をじっと待っているわけにはいかず、ついに『当村旱損場ニ付、往々村方一同助ケノため自分入用を以』って『池所の池』、通称源重郎池を構築することになった。この点に源重郎池築造の最大の意義をみいだすことができる


何もかもを行政に頼ることのできない今の時代に通じるものをどこか感じませんか。

『相生市史』では、結果的に領主に頼らず村人(農民)たちが自分たちの手で源重郎池を築造したことに最大の意義があるといっています。つまり、これこそが「自律した地域」であり、「地域自治」といえましょう。『相生市史』は源重郎池の築造・修復に関して、そこに最大の意義をみいだしているのです。

先人が残した足跡(過去からの伝言)を今の人が受け取り咀嚼し、また後世へとつないでいく、その大切な営みを考えさせられます。今日、小河の活動が国や県から表彰されるのも源重郎池築造・修復当時の小河の人たちの精神を受け継いでいるのかもしれません。


その後、源重郎さんの子孫である光葉久吉氏から「池所の池は、小河村持ちにして貰いたい」と申し出あって、源重郎池は小河村の所有(総有)になったそうです。明治29年(1896)5月、小河村の人たちは「村民相謀リ碑ヲ以テ其ノ徳ヲ表ショウセリ」(『赤穂郡史』(明治の地誌))と、「築池記念碑」を建立し謝恩の一端を表しました(下写真)。




源重郎池築池記念碑(2011年5月9日撮影)



    続きを読む


Posted by 矢野町交流広場 at 17:01Comments(2)お宝発見(遺跡等)