2012年01月19日

鉱山としての三濃山

先日、『播磨国風土記』の記述から西播磨地域は鉄がよく産出される地域であったということを述べました。しかし、『播磨国風土記』は赤穂郡の条が欠落しており、私たち相生市や矢野町のことについてはわかりません。

でも、今に残るいろんな事柄を総合すると、三濃山およびその周辺には鉱脈があって、信仰深く栄えていた様子が浮かび上がってきます。

三濃山のある矢野町北部の集落に、「金坂(かねさか)」「釜出(かまで)」という集落があります。また、三濃山のすぐ下の集落の瓜生には「金掘(かねほり)」という字名もあります。そして、三濃山に接する上郡町側の集落が「金出地(かなじ)」といいます。まさにそのものですよね。

また、三濃山から瓜生を通って矢野川に注ぎ込んでいる川を、地元では「鍛冶屋川(かじやがわ)」と呼んでいます。地名的にも三濃山周辺の地は、鉱物を産し加工物を生産し、「三濃千軒」といって人々が多く住んで栄えていたんだろうなということが想像できます。

今、羅漢の里、鍛冶屋川のほとりに、刀鍛冶の桔梗光史さんが2年ほど前に来られて、築約50年の水車小屋を改装し鍛刀場として鉄を打っておられます。何か感じるものがありますね。


では、三濃山そのものに目を向けますと、『相生市史』には三濃山の東谷に「鉄山(かねやま)」があったと書いてあります。確かに、人によると、東谷に坑道の入り口の跡が3つあるとか、掘った跡があるとか聞きます。

かつて三濃山の堂宇の一つに求福教寺の守護神として山王神社がありましたが(現在は篤信家により再建されている)、ある方のレポートによると、「(山王神社の)祭神は山の頂を支配する神の意味をもつ「大山咋神(おおやまくいのかみ)」で、「咋」は「食い破って穴を開ける」の意となり、採鉱を意味する」とあります。

そして、「従って山王神社は鉱山にも縁を持つ神となり、事実三濃山東谷には鉱山跡も有り、三濃山の山名も鉱山関連語の「実濃山」とすれば「良質の鉱物が出る山」の意味ともなる」と書かれています。

「みの」や「みのう」という言葉は鉱山や鉱物あるいは「鉄(かね)」に関係する言葉なのでしょうか。そういえば、美濃(岐阜)は戦国時代刀剣の産地ですし、兵庫県の美嚢郡は三木の金物で有名ですしね。

他にも、三濃山はかつて鉱山に咲くといわれているササユリが群生していたとか、三濃山の水は鉄分が多く(赤茶色くなる)ワサビの栽培はムリだとか地域の方にお聞きしました。



現在の山王権現社



菅谷の旧筑紫街道脇にある山王神社の鳥居


こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 15:34Comments(0)矢野歴史考