2012年09月11日

矢野歴史講座1-前書き

今年始めに、「矢野歴史考」ということで三濃山のことや泰河勝と矢野との関わり、地名のことなど古代の矢野について書いてきました。

今回は中世の頃の矢野、全国的にも有名な「矢野荘」のことについてシリーズでちょっと書いてみたいと思います。特に私たちのご先祖様はどのように生きてきたか、当時の矢野に暮らす人々に焦点を当てて書いてみたいと思います。

というのも、この頃の村落は惣村といって住民自治がしっかりした時代でした。これから自律した地域づくりを目指す矢野にとって、ご先祖様の頃の村落の仕組みや彼らの生き様は参考になると考えるからです。そこから何が見えてくるか、楽しみです。今回書こうとしている矢野歴史講座「矢野荘」シリーズは、今年4月から6月の勉強会で取り上げた内容です。

と、その前にこれまでのおさらいということで、これまでに取り上げた、言い伝えや伝承・記録などで古代の矢野に関わる人物を整理しておきましょう。


恵便・恵聡
朝鮮半島から仏教を伝えるためにやってきた僧侶で、奥矢野に隠棲し羅漢石仏を彫ったという伝承が残る。矢野に最初に登場する歴史上の人物である。

泰河勝
西播磨一帯の開拓に貢献した秦氏の当主で、聖徳太子の側近。河勝をまつる大避神社が西播磨一円にある。能下にある三本卒塔婆伝説は有名。

柿本人麻呂
矢野神山を詠んだ万葉歌。森の磐座神社に歌碑

弘法大師
三濃山を霊地として山岳信仰を広めようとした言い伝え

秦内麻呂
赤穂郡司。三濃山求福教寺を創建(864)。千手観音の脇士に聖徳太子と弘法大師が奉られている

源義家
義家の保護で三濃山が最も栄え、三濃千坊といわれる。しかし、その後保元・平治の乱(1156,1159)で伽藍消失し、三濃山荒廃


このように矢野(奥矢野)は、古代において歴史的な人物にまつわる伝承が数多く残されており、歴史的な由縁のある土地柄であり、矢野荘しいては相生市の原点ともいえます。その頂点に三濃山があります。

また、秦氏、秦河勝、秦内麻呂、このあと出てきますが、矢野荘おこりの基礎となった久富保を開拓した秦為辰というように古代から中世にかけて相生を形作ってきたのは秦氏一族というのがわかります。

先走ってもう少し言ってしまえば、秦氏の末裔で悪党になった寺田法然の没落によって、秦氏は相生の表舞台から去っていきます。

とにかく、矢野は、古代から中世にかけて歴史的な人物が何人も顔を出す歴史的由縁のある地域だということを覚えておきましょう。

とりあえず今日はここまで。


こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 13:43Comments(0)矢野歴史考