2012年09月13日

矢野歴史講座3-矢野荘のおこり

矢野歴史講座、今回は「矢野荘のおこり」です。

平安時代後半、赤穂郡の郡司(この相生・赤穂辺りの役人・権力者。今でいうと相生あるいは赤穂市長でしょうか)であった秦為辰(はたのためとき)が、その地位を利用し、その地の農民を動員して現在の陸・那波・佐方あたりを開拓させました。これが「久富保(ひさとみのほ)」です。

為辰はこの久富保を貴族に守ってもらおうと、国司(今でいうと県知事でしょうか)播磨守(はりまのかみ)、藤原顕季(ふじわらのあきすえ)に寄進します。

その後、顕季の孫で鳥羽上皇の寵姫(ちょうき:君主が寵愛する侍女)美福門院が、1136年荘園を申請し翌年「矢野荘」として承認されました。このとき、申請された荘園の範囲は、開拓された久富保だけでなくもとからあった矢野・若狭野の地含めて申請されため、矢野荘は大きな荘園(兵庫県で2番目の大きさ)になりました。これがほぼ今の相生市になるということです。

ということで矢野荘は大きく二つに分けられます。一つは矢野・若狭野エリアでそこを「惣荘(そうしょう)」と呼びます。もう一つは新たに開拓された那波・佐方エリアで「浦分(うらぶん)」と呼びます。

また、矢野荘はそこで財としてとれる米の用途からも二つに分けられます。例名(れいみょう)と別名(べつみょう)です。惣荘の6割と浦分全部が例名として領家(美福門院)の財へ、惣荘の残り4割が別名として歓喜光院の建設費用に回されました。要は、別名は今でいう特別会計ですね。矢野荘はこのあと変遷があって最終的には、例名が東寺に、別名が南禅寺のものとなります。

問題が発生します。時代は鎌倉幕府の時代となり全国に守護・地頭が配置されます。矢野荘にも鎌倉御家人の海老名氏が地頭として送り込まれてきます。そうすると、俺にも荘園の分け前を寄こせ、ということで争いが起きます。

ここでちょっと矢野荘(例名部分)に関わる職を確認しておきましょう。本家職・領家職が美福門院から最終的に東寺に、矢野荘現地では、預所職は領家からの代官、公文職が開拓者の子孫寺田氏、地頭職が海老名氏となります。

そうすると、現地に三人の権利者が錯綜し混乱します。預職の代官と地頭職海老名氏で取り分の争いがあって、最終的に矢野荘(例名)を東西に分け、領家の支配する土地(西方)と地頭の支配する土地(東方)に区分します。これを下地中分(したじちゅうぶん)といいます。

そこで、割に合わないのが公文職の寺田氏です。下地中分によって領家である東寺は寺田氏の公文職を解任し、寺田氏は個人の土地である重藤名も1/4を失うことになります。寺田氏は秦氏の末裔といわれており、そうだとすると、もとはといえば先祖の秦為辰が開拓した久富保から始まり、権利を確保するために寄進した矢野荘なのに、自分の持つべき権利が一切奪われてしまったのです。

そこで、寺田氏、特に寺田法然は自分の権利を主張するために不満をぶつけ、打ち壊しや放火、狼藉など反社会的行為を次々に起こしていきます。これが「悪党」です。

ということで、次回は悪党についてです。

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Posted by 矢野町交流広場 at 13:55Comments(0)矢野歴史考