2012年09月14日

矢野歴史講座4-「悪党」について

今回は、「悪党」について勉強しましょう。

『相生市史』によれば、悪党とは、大まかな定義として

「鎌倉時代中期以降の政治の行き詰まりと社会構造の変化が生みだした、新しい政治と社会を目指す者たちの動きであり、鎌倉時代中後期特有の歴史的産物」(『相生市史第1巻』pp.613-614)

としています。「新しい政治と社会を目指す者たちの動き」、なんかかっこよく書いてありますね。果たしてそうなのでしょうか。

『播磨国風土記』に次いで古い播磨の地誌に『峰相記』というものがあります。南北朝の時代に書かれたもので、当時の悪党の様子がこと細かく書かれています。それによると、「播磨では殊に、悪党が大勢、一斉に立ち上がって実力行使の挙にでるという評判でございます」と、ここ播磨地域は悪党が盛んであったと認識されていたようです。

では、悪党はどういう行動をとったのでしょうか。『峰相記』によれば、

「あちらこちらで乱暴をし、海辺では、海賊をし、急に押し寄せて物を取り、強盗、山賊、追剝ぎと、絶えることは無く、(世間の人とは)類を異にするというか、とても普通とはいえない様子で、人として、ふみ行う道からはずれています」

「まったく、約束を承知するなどの、正しいことはしません。博打や博奕が好きで、かくれて物を盗むのを仕事としています」

「しきりに、奪い取り、乱暴をし、(勝手に)田(の稲)を刈り、畠(の収穫物)を刈り、攻め入り、奪い取り、結局は、(無事に)残った荘園が、あるはずだとも見えないのです」

『峰相記』は、おそらく体制側の人間によって書かれたものであろうけれども、それにしても酷いものですね。幕府は何度か悪党の鎮静を図ろうとしたようですが、あまり効果はなかったようです。

では、悪党にどういう人たちがいたかということですが、『兵庫県史』には次のようにあります。

「その主力は特定の階級や階層ではない。地頭御家人であり、荘園の雑掌・代官あり、問丸・借上あり、浮浪人・犯罪者あり、その構成は雑多である。(中略)基本的には地方領主・地主・商人・運送業者・高利貸・代官請負業者の利害を中心に行動しているので、最大の被害者は農民ということになる。というのは、刈田狼藉から殺人、合戦まで、ことごとく農民が犠牲に供されるからである」(『兵庫県史第2巻』p.537)

要するに、悪党とは現社会に、すなわち当代政権を担っている鎌倉幕府に対し不満をもつ反体制的群像なのです。そして、悪党の反社会的で反道徳的行為はその不満を昇華するための行為だったと位置づけられるでしょう。

ここで見落としてはならないのは、悪党の行為によって最も犠牲を払ったのは、田畑を好き勝手荒らされた農民だということです。すなわち矢野みなさんの御先祖様だということですね。悪党というと、アウトサイダー的に体制側と戦った人たちと捉えられヒーローのように扱われますが、決して称賛されるべきものではないとぼくは思います。

ご先祖様もやられっぱなしではありません。次第に結束を固め、「惣」という自衛的な村組織を形成し戦うようになります。郷村制(ごうそんせい)の始まりです。ようやくここまでたどり着きました。実は「惣」という村組織、ここに持って来たかったのです。「惣」とはどういうものか、次回以降見ていきましょう。

悪党にもどって、『相生市史』には、
「(悪党は)たいへんな乱暴狼藉をはたらいたわけだが、その内容は、荘園領主に納めるべき年貢米を横領したばかりでなく、百姓個々人に対しても乱暴を加え、その結果百姓ともするどく対立するにいたった。百姓との対立は、悪党の多くに共通する」(『相生市史第1巻』p.615)と書かれ、

「『人目をはばかって恥を恐れる気色さらになし』といわれる悪党たちの倫理的な退廃がじゅうぶんに克服されないかぎり、政治勢力としての悪党の大結集が困難」(同上p.621)と言いきっています。

最後に、「われは播磨の悪党なり」と宣言した矢野荘の大悪党、寺田法然はどうなったか述べておきましょう。法然は一族郎党と近隣の地頭御家人らを語らって、矢野荘の他の荘園(別名)にも押し入り、年貢米をはじめ手当たり次第奪い取り、殺害、強盗、放火などの数々の悪行を何度も働きました。東寺は幕府に訴えますが、幕府は有効な処置を取ることができません。

そこで、当てにならない幕府を尻目に、ご先祖様農民と東寺の寺家使の結束により数回の合戦のち寺田悪党を撃退しました。こうして寺田氏は没落し、西播磨の開拓から始まった秦氏の相生における歴史が幕を閉じます。

矢野歴史講座いよいよ佳境に入って来ました。ここで少し休憩して再び始めます。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 13:42Comments(2)矢野歴史考