2013年08月07日

矢野歴史講座6-「惣」について2

今日は、自律した中世の村「惣」の自治についてみていきましょう。

その前に「惣」の人的構成について述べておくと、「惣」は指導者として乙名(おとな)、沙汰人(さたにん)がおり、地下人(じげにん)と呼ばれる自立した一般百姓もまた構成員としていました。また、年齢的なところで乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅう)といいました。

乙名は有力農民(名主)や多くの耕地を有する者など有力者によって複数人で構成され、惣の運営・調整・交渉などを行いました。つまり、村の執行役員ってとこでしょうか。中には守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れ、地侍と呼びました。乙名はもともと、村落の祭祀を執り行う宮座(みやざ)の代表者を指していましたが、惣の結合は宮座での儀式を中心に行われていたので(すなわち惣ほぼイコール宮座)、惣の指導者を意味するようになりました。

沙汰人はもともと荘園領主や荘官の代理人として、命令や判決を現地で執行する者を指しましたが、荘園の弱体化と惣の発達により惣との結びつきを強めて惣の指導者になる者もいました。

血気盛んで意欲や体力のある若衆は、惣の警察・自衛・消防・普請・耕作など共同体の労働の中心を担いました。ここで着目することは、惣という村落共同体のなかで若者には若者の役割がきちんとあり、村の一員として村に関わってきたということです。それがそのまま村落の維持・継続につながってきました。今日における地域の持続を考えるとき、いかに若者が地域に関わることができるか、そういう場を創出できるかがポイントだと思います。

それでは惣の自治について、主な特徴として以下の6つを上げてみました。

①協議機関・・・惣の内部は、平等意識と連帯意識によって結合していました。惣で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣の構成員が出席する「寄合(よりあい)」という会議を開いて独自の決定を行っていました。ぼくは、何か問題があったら人が寄り集まって協議する、この寄合という行為が村落自治の根幹だと考えています。

②規約制定・・・惣は村の結合を維持していくため、寄合で「惣掟(そうおきて)」という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣自らが追放刑、財産没収、身体刑、死刑などを執行する「自検断(じけんだん)」が行われることもありました。検断は領主や地頭など通常支配する側の重要な権限ですが、支配される側の惣自身が行うことに大きな特徴があり、そこに意味の重さがあります。

③共有財産・・・惣は生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣の住民なら誰もが利用できる「入会地(いりあいち)」を設定しました。(以前近代的所有の考え方で「総有」と「共有」の違いをどこかで話したでしょうか。なかったらその機会をまた)

④共同作業・・・入会地の管理からため池・水路や道路の普請(修築)、灌漑用水の配分調整など、日常生活・生産に必要な事柄を主体的に取り組んでいきました。

⑤年貢納入・・・年貢はもともと領主・地頭が徴収することとされていましたが、惣が責任をもって一括して年貢納入を請け負いました。これを地下請(じげうけ)といいます。地下請の制度は、惣が消滅し近世村落が成立した江戸時代以降も継承されていきます。

⑥抗議行動・・・惣が支配者や対立する近隣の惣への抗議・要求活動として「一揆」を結成しました。一揆は一見暴力行為として捉えられがちですが、もともとは心を一つにするという意味をもち、参加者が同一の目的のもとで相互に対等の立場に立って強く連帯することが一揆でした。惣による一揆を土一揆(つちいっき)といい、それは生活困窮からというよりは自治意識の高まった惣が主張すべき自分たちの権利を要求するために発生したと考えられます。しかし、戦国時代に入り戦国大名による一円支配が強化されるに従って、惣は自治的性格が薄まっていき、土一揆の発生は次第に減少していきました。

大事なことは、現代における地域自治を考えるにあたり、これら惣自治の特徴(自治の現れ)から何を学び、どこに意義を見出すかです。これ以降は、これら惣自治の特徴のいくつかについてさらに言及し、現代の地域自治へつながるご先祖さまからの声を探っていきたいと思います。

次回は、現在の矢野地域から矢野荘内の惣の地割イメージをちょっと作ってみましょう。

こ  


Posted by 矢野町交流広場 at 14:43Comments(2)矢野歴史考