2017年05月31日
◆太子町「鵤荘」を歩く-聖徳太子の投げ石
「お太子さんの荘園・鵤荘の現地を歩く」、つづきです。
それでは、ここからは檀特山を下って、聖徳太子の投げ石(鵤荘の牓尓石)を巡ります。
今回は4か所の投げ石を巡りました。
下山は登りと反対側、北側から下りていきます
一つ目は、「東出(とうで)の投げ石」(県指定文化財)。太田小学校体育館のすぐ横にあります
説明板
(画像をクリックすると大きくなります)
北へ、太子東中学校のある小山を抜けていきます
二つ目は、「松ヶ下の投げ石」。工場の脇に草に埋もれていました
説明板
(画像をクリックすると大きくなります)
途中、さくらんぼがいっぱいなっていました
さらに北へ
田んぼの中に東西に延びた幅広の部分。これは何でしょう?「筑紫大道」
12世紀に起こった元寇に対処し兵を九州に送るために築いた道だそう
はるか筑紫の地とここを通った人たちに思いを馳せる
ここを通って西へ
三個目が「桜が坪の投げ石」。私有地にあります。この石だけ事情が異なります
田んぼの中にある、このわりあい大きなこんもりとした森は?
村の神社がありました。それにしては大きな森の中にありますね
そして、太歳神社からすぐの道路の真ん中に
今回最後の投げ石「平方の投げ石」(県指定文化財)があります。牓示石といえばこれ
写真を見れば分かるように、もともと田んぼの畦にあったものでまわりの石と明らかに違います。何らかの意図があってここに置かれたようです。
それにしても、なんで道路建設で車線をここだけ分かつようになってしまったのか。県と町でいろいろあったようです。ここではやめときましょ。
実際に檀特山に登って太子町を見渡し、ここから聖徳太子が投げたといわれる投げ石を巡るウォーキングは、けっこう楽しかったです。でも、今回の参加者は学芸員さん含めて4名でした(さみし~)。太子町内だけではなく、観光という観点から町外へもっと発信・宣伝すればいいのにと思いました(もったいない)。また、このあたりは矢野荘を始めいっぱい荘園があるので、荘園のある地域同士が連携すれば地域の活性化につながる何か楽しいことができそうな気がしました。
こ
それでは、ここからは檀特山を下って、聖徳太子の投げ石(鵤荘の牓尓石)を巡ります。
今回は4か所の投げ石を巡りました。
下山は登りと反対側、北側から下りていきます
一つ目は、「東出(とうで)の投げ石」(県指定文化財)。太田小学校体育館のすぐ横にあります
説明板
(画像をクリックすると大きくなります)
北へ、太子東中学校のある小山を抜けていきます
二つ目は、「松ヶ下の投げ石」。工場の脇に草に埋もれていました
説明板
(画像をクリックすると大きくなります)
途中、さくらんぼがいっぱいなっていました
さらに北へ
田んぼの中に東西に延びた幅広の部分。これは何でしょう?「筑紫大道」
12世紀に起こった元寇に対処し兵を九州に送るために築いた道だそう
はるか筑紫の地とここを通った人たちに思いを馳せる
ここを通って西へ
三個目が「桜が坪の投げ石」。私有地にあります。この石だけ事情が異なります
他の投げ石は、古来より地の人たちに「太子の投げ石」として伝えられてきたものです。でも、牓示石が記され14世紀に描かれた播磨国鵤荘絵図の位置とは一致しません。そこで、絵図と一致するところに石がないか調べて見つかったのがこの石です。これは牓示石として一番可能性が高い大事な石ということで、私有地だけれども溝を造る際この部分だけU字溝を止めてもらったそうです。
田んぼの中にある、このわりあい大きなこんもりとした森は?
村の神社がありました。それにしては大きな森の中にありますね
「太歳神社」。よく聞く「オオトシ神社」ではなく、大の中に点があって「タサイ神社」と呼ぶそう。今は村の鎮守様ですが、もともとは鵤荘の政所と直接かかわりのあった神社だそうです
そして、太歳神社からすぐの道路の真ん中に
今回最後の投げ石「平方の投げ石」(県指定文化財)があります。牓示石といえばこれ
写真を見れば分かるように、もともと田んぼの畦にあったものでまわりの石と明らかに違います。何らかの意図があってここに置かれたようです。
それにしても、なんで道路建設で車線をここだけ分かつようになってしまったのか。県と町でいろいろあったようです。ここではやめときましょ。
実際に檀特山に登って太子町を見渡し、ここから聖徳太子が投げたといわれる投げ石を巡るウォーキングは、けっこう楽しかったです。でも、今回の参加者は学芸員さん含めて4名でした(さみし~)。太子町内だけではなく、観光という観点から町外へもっと発信・宣伝すればいいのにと思いました(もったいない)。また、このあたりは矢野荘を始めいっぱい荘園があるので、荘園のある地域同士が連携すれば地域の活性化につながる何か楽しいことができそうな気がしました。
こ
2017年05月30日
◆太子町「鵤荘」を歩く-檀特山
相生市には一昨年、世界記憶遺産に登録された「東寺百合文書」に記載される有名な荘園「矢野荘」がありますが、太子町にも聖徳太子ゆかりの荘園「鵤荘(いかるがのしょう)」があります。
鵤荘は、聖徳太子35歳のとき推古天皇の前で勝鬘経(しょうまんぎょう)というお経の解説をしたところ天皇に大変喜ばれ、播磨のこの地(太子町)に土地を賜り、それを法隆寺に寄進しました。その土地が後世、法隆寺領鵤荘となりました。
鵤荘には、聖徳太子が現太子町のほぼ中央に位置し姫路市と分ける檀特山(だんとくさん)のてっぺんから石を投げて土地の境界を決めたという「聖徳太子の投げ石」(鵤荘の牓示石)が7か所残っています(一つは姫路市にある)。そのうちの4つが県の指定文化財に指定されています。
今回(5/14)、太子町の歴史資料館主催で、檀特山に登って太子町を一望し実際に太子の投げ石を巡る見学会「お太子さんの荘園・鵤荘の現地を歩く」(約12km)があったので参加しました。荘園つながりということで報告させてください。
JR網干駅から出発です
網干駅には、かつて新宮から網干港まで走っていた播電鉄道の引き込み線の跡が残っています
(中央部が引き込み線跡。左側の石段がホームだったところ)
神功皇后が立ち寄った時に船をつないだという船つなぎの岩
今回は朝日山にも立ち寄りました。小学生以来です
「そうそう、この門」。記憶が蘇ってきました
瀬戸内海が見渡せます
朝日山大日寺
巨大な大日如来が横たわっています
いよいよここから檀特山に登ります
最近、体力落ちてるからなぁ
古墳の跡。檀特山にはいっぱい古墳があります
頂上が見えてきました。最後がきつかった
頂上の巨岩。太子が黒駒に乗って登り修行したので、太子行道(こうどう)の岡ともいう
巨岩にはぼこぼこした穴が。聖徳太子の黒駒の蹄跡だそう
応仁天皇が望覧時の杖や沓(くつ)の跡ともいわれています
この岡から太子町が360°見渡せます。南側は姫路市~瀬戸内海
東側は太田地区と姫路市勝原区
西側(斑鳩地区~石海地区) 応神天皇がここに立ち国見したという立岡山が見えます
北側(太田地区~龍田地区) 真正面の小山に太子東中学校
つづく・・・
こ
鵤荘は、聖徳太子35歳のとき推古天皇の前で勝鬘経(しょうまんぎょう)というお経の解説をしたところ天皇に大変喜ばれ、播磨のこの地(太子町)に土地を賜り、それを法隆寺に寄進しました。その土地が後世、法隆寺領鵤荘となりました。
鵤荘には、聖徳太子が現太子町のほぼ中央に位置し姫路市と分ける檀特山(だんとくさん)のてっぺんから石を投げて土地の境界を決めたという「聖徳太子の投げ石」(鵤荘の牓示石)が7か所残っています(一つは姫路市にある)。そのうちの4つが県の指定文化財に指定されています。
今回(5/14)、太子町の歴史資料館主催で、檀特山に登って太子町を一望し実際に太子の投げ石を巡る見学会「お太子さんの荘園・鵤荘の現地を歩く」(約12km)があったので参加しました。荘園つながりということで報告させてください。
JR網干駅から出発です
網干駅には、かつて新宮から網干港まで走っていた播電鉄道の引き込み線の跡が残っています
(中央部が引き込み線跡。左側の石段がホームだったところ)
神功皇后が立ち寄った時に船をつないだという船つなぎの岩
今回は朝日山にも立ち寄りました。小学生以来です
「そうそう、この門」。記憶が蘇ってきました
瀬戸内海が見渡せます
朝日山大日寺
巨大な大日如来が横たわっています
いよいよここから檀特山に登ります
最近、体力落ちてるからなぁ
古墳の跡。檀特山にはいっぱい古墳があります
頂上が見えてきました。最後がきつかった
頂上の巨岩。太子が黒駒に乗って登り修行したので、太子行道(こうどう)の岡ともいう
巨岩にはぼこぼこした穴が。聖徳太子の黒駒の蹄跡だそう
応仁天皇が望覧時の杖や沓(くつ)の跡ともいわれています
この岡から太子町が360°見渡せます。南側は姫路市~瀬戸内海
東側は太田地区と姫路市勝原区
西側(斑鳩地区~石海地区) 応神天皇がここに立ち国見したという立岡山が見えます
北側(太田地区~龍田地区) 真正面の小山に太子東中学校
つづく・・・
こ