2011年09月05日

◆源重郎池1

源重郎池1

源重郎池の石堤(2011年5月9日撮影)

ここにもシカ避けのフェンスが。シカが草を食べて環境を壊すらしい。


先日、小河活動協議会の視察に関して、ブログで小河のまとまりのキーは「源重郎池」にあるようだと書きました。自治会長さんは確かそれを「原点」と言っていたように思います。今回は、源重郎池について「地域自治」の観点から2回に分けて述べてみましょう。

源重郎池は、川が小川で水の少ない小河村にあって用水を確保するために、1800年代前半に同じ小河村の農民である2代目源重郎さんから3代にわたって私財を投じて、集落から約4kmも上った山の中腹に築造した谷池(山の谷を利用して水をためたため池)です。正式には「池所(いけどこ)の池」というそうです。池所は地名です。

記録によると、享和2年(1802)から文化6年(1809)の築造時には、「人足料 銀5貫239匁、諸雑費331匁2分、計銀5貫570匁2分」が源重郎さんによって投じられたということです。これが今ではどれくらいのお金になるかわかりませんが。

私財を投じて集落から約4kmも上がった山中にため池を築くことに思い至った源重郎さんもすごいですが、小河村の人たちや隣村の人たちもすごかったと思います。その時の記録には、「外に合力175人 寅年小河村中110人、上土井村より51人、観音より14人」ともあります。つまり、村総出で8年もの歳月をかけて源重郎池を造ったわけです。

加えて、冒頭の写真を見てください。源重郎池の堤は石積みでできています。これは、谷池としては日本でも珍しいようです。自動車のない時代に、村人は力を合わせて(合力:ごうりき)、重い石をもって約4kmものあるともいえない山道を一歩ずつ何度も上り下りし、石を積み上げていったのです。その光景を思い浮かべると胸にくるものがあります。

また、天保年間(天保3年~6年)の4代目源重郎さんによる大修理では、さすがに源重郎さん家も資金に余裕がなく、小河村の人たちと隣村の人たちは「頼母子講」を起こし、それによって経費を賄ったといいます。

このように、3代にわたる源重郎さんをはじめとする小河の人たちは、自分たちの手で、すなわち自分たちの知恵と汗とお金で村を守り、生活を維持してきたのです。先人たちのおかげで今の私たちがあるわけです。そして、先人たちは私たちに、地域自治とはこういうもんだということを何か教えてくれているような気がします。自治会長さんが、「小河のまとまりの原点が源重郎池にある」といわれるのも納得できます。



頼母子講(たのもしこう):

無尽講ともいう。講(組合)の形式をとって、金銭の融通を目的とする民間の互助組織。仲間の共済互助を本義とする。社寺建立その他公共的事業の資金調達を主目的とするものと、個人的融資救済を主旨とするものがあった。

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Posted by 矢野町交流広場 at 23:55│Comments(0)お宝発見(遺跡等)
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