2012年01月06日

◆渡来人と鉄-『播磨国風土記』から

今、『相生市史』を読んでいますので、ここ何回かに分けて矢野町のアイデンティティを歴史的に探ってみたいと思っています。それによって、矢野町の人たちが誇りをもって地域づくりをやっていけると思うからです。

ということで、まずは『播磨国風土記』から入っていこうと思います。最初は、西播磨という少し大きな範囲からみていきます。というのも『播磨国風土記』は残念ながら、相生市や矢野町が関わる赤穂郡の条が欠落しているからです。

『風土記』は、奈良時代に朝廷の命によって編まれた、その当時の様子を表す各国の地誌です。現存するのは、播磨、出雲(島根)、豊後(大分)、肥前(佐賀・長崎)、常陸(茨城)の5国しかありません。その中で完本は『出雲国風土記』だけです。『播磨国風土記』には、農耕に関すること、土地の開拓、国占め闘争、中央との関係、渡来人伝承などが書かれており、播磨のもっとも古い地誌といえます

『播磨国風土記』のなかで、今回特に着目したいのが、鉄と渡来人の関係です。

『播磨国風土記』には、製鉄や鉱山に関する記述がいくつか出てきます。たとえば、託賀郡(多可郡)の条では、「天目一神(あめのまひとつかみ)」が出てきます。これは一つ目の神で鍛冶の神です(火を見すぎて目がつぶれた)。

西播磨に目を向けますと、讃容郡(佐用郡)の条、後段に「山の四面に十二の谷あり。皆、鉄を生す」とあります。また、宍禾郡柏野里敷草村(現宍粟市千種町)の条にも末尾に「鉄を生す」と出てきます。

製鉄(鍛冶)に関するところでは、揖保郡枚方里佐比岡の条で出雲の国人らが通行を妨害する神を鎮めるために「佐比」を作って祭るという記述が出てきます。「佐比」とは農耕用の鍬のことで鉄の鍬のことを「サヒ」といいます。つまり、西播磨の広範囲で鉄を産する鉱山があって、それを使って製品を作る技術があったということです。

次に、揖保郡粒丘の条では「天日鉾命、韓国より渡り来て」とあり、新羅の王子である天日鉾(あめのひぼこ)が揖保川河口までやって来て在地の神、葦原志挙乎命(あしはらのしこのみこと)と対決しています。天日鉾は朝鮮半島からの製鉄集団(軍団)と考えられています。

宍禾郡波加の村(宍粟市波賀町)の条では、伊和大神は「思いもよらない。先に来ていたのか」と、自分よりも早く、播磨の鉄に早く気付いて波加の村(波賀)にやってきた天日鉾にビックリしています。

つまり、ここからわかることは西播磨には鉄を産する鉱山があって、朝鮮半島から製鉄の技術をもった集団が在来の豪族と対立しながらも入ってきたということです。そのこともあって西播磨は技術的に開拓が進み、西播磨の農業は発展していったといえるでしょう。

つづく

渡来人と鉄-『播磨国風土記』から

里山 すっかり葉も落ちて寒そう





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Posted by 矢野町交流広場 at 16:47│Comments(5)矢野歴史考
この記事へのコメント
おおお!

おもしろいですねえ(^o^)/

三濃山の「みの」という言葉についても、美濃(岐阜県)で秦氏が製鉄をしていたという共通点があると、以前におっしゃってましたもんね。

確かに、矢野町には過去に鉄や銅を産出していた土地が異様にたくさんありますね。

矢野町榊だけでも、少なくとも4箇所はあるそうです。

天日鉾(豊岡あたりでは「土蜘蛛」と呼ばれていた一族ですね)と秦氏の関係が興味深いです!

こんどお邪魔した時にでも、もっと教えてください。
Posted by ひろぽん at 2012年01月07日 22:30
秦氏はもともと葛野(かどの・現在の京都市の周辺)に居ついていた渡来系の氏族ですよね。

天皇の命令で、ジュクジュクの湿地帯で人間が住むにはぜんぜん適していなかった京都盆地を、渡来人ならではの進んだ土木技術で埋め立てて、使い物になる土地へと大規模造成したのが秦氏の一族で、京都の「太秦」という映画村がある周辺が、秦氏のもともとの居住支配地だったんだそうです。

広隆寺や清水寺など、平安京の成立当初から存在する古い寺社仏閣は全て、京都盆地の真ん中ではなく、京都盆地を縁取るように取り囲む山のふもとのあたりに集中していますが、それは出来たてホヤホヤのころの平安京の中心部の地盤がまだジュクジュクで、巨大な建築物が立てられなかったからだったんだそうです。

山すその土地は、地盤がしっかりしていたんですね。

で、やがて、何をミスしたのか知りませんが、天皇家から嫌われた秦氏は京都を追われて、赤穂の坂越まで都落ちします。

秦氏は土木工事や鉱脈発見・製鉄技術だけでなく、製酒(美味しいお酒を造る技術)も秀でていて、だから赤穂の坂越には古い酒蔵があるんだそうです。

ちなみに、秦氏の氏神は京都の松尾大社ですが、松尾大社はお酒の神様として超有名ですね。

秦氏は渡来人として、金属鉱脈発見技術を含んだ製鉄・製銅技術、土木工事技術、製酒技術など、日本の土着の豪族よりもはるかに進んだテクノクラートだったようですね。

矢野町に、鉄や銅の鉱脈が数多くあったのも理解できます。

おそらく、京の都から赤穂の坂越へと逃れた秦氏は新天地で安定した生活ができるように、さまざまな資源を求めて、旧赤穂郡内を色々と歩き回ってリサーチしたことでしょう。

そして、鉄や銅の鉱脈がたくさんある土地を見つけた。

それがきっと、1300年ぐらい昔の矢野町だったのでしょうね。
Posted by ひろぽん at 2012年01月07日 22:52
ひろぽんさん

先書かれてしまいましたね(笑)。
『播磨国風土記』を前置きにして、つづき、われら矢野町を見たとき鉱山としての三濃山と開拓者としての秦氏について書こうと思っていました。
さすがですね。

『播磨国風土記』を読んだとき、天日鉾が秦氏一族ではないのかなと素人ながらピンときたのだけど、そんなこと言っている学者とかいないのかな?どちらも新羅出身のようだし。

Posted by 矢野町交流広場 at 2012年01月08日 02:22
ひろぽんさん

書き忘れてました。
『播磨国風土記』によると、天日鉾は最終的には葦原志挙乎命との対決で負けて?出石に行くそうですよ。但馬の一の宮である出石神社の祭神は天日鉾だそうです。

Posted by 矢野町交流広場 at 2012年01月08日 02:39
すみません、フライングしてしまったようですね m( _ _ )m
秦氏‐天日鉾‐北兵庫地域・・・気になる関連がありそうですね。
僕には そこまでのことは分かりませんので、いつか是非ともご教授ください!
Posted by ひろぽん at 2012年01月08日 14:37
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