2013年09月06日

◆矢野歴史講座8-惣荘一揆

矢野歴史講座前3回は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて成立し、自治機能が高度に発達した「惣」あるいは「惣村」という村落組織を概観しました。私たちご先祖様が生きた「矢野荘」の数々の村落も当然「惣村」であったわけです。

今回シリーズは、惣村のなかで自分たちの権利・生活を守る抗議行動として行われた「一揆」について取り上げたいと思います。荘園を範囲とし矢野荘でもっともはげしい行動がとられた一揆が、永和3年(1377)に起こった「惣荘一揆」でした(『相生市史第2巻』pp110‐132)。

惣荘一揆は、矢野荘の領主である東寺の代官 祐尊に対する抗議行動です。祐尊は20年にわたり矢野荘の農民に対し、規定以上に人夫としてこき使い、年貢を取り立てながら領主には未納として報告するなど、私利を肥やす行為を繰り返し行ってきました。それに堪忍袋の緒が切れたご先祖様農民たちは、圧倒的な強さをもつ守護勢力を味方につけている祐尊に対し、「逃散(ちょうさん)」という手段によって対抗しました。

逃散とは、領主に対して不満をもつ農民たちが集団で耕作を放棄し、他所へ身を隠すことをいいます。今でいうとストライキのようなものでしょうか。惣荘一揆は、逃散が1月14日からはじまりましたが、一応東寺(寺家)が新たな代官を立てることを約束したことによって、農民たちは2か月半経過して帰住しました。なんとか春の耕作には間に合うことになり、東寺としても農民としても一年分の収穫をふいにすることは免れました。

しかし、その後も祐尊は矢野荘にとどまり、自分に従おうとしない農民たちを守護の力を借りて弾圧しようとしました。12月2日、農民たちが小山田(若狭野町若狭野)で寄合を行っていたところ、祐尊は守護の浦上氏一族と数十人の悪党を率いて農民たちに襲いかかりました。農民たちは、自分の所務にしたがえという祐尊の求めに応じなかったためことごとく寵舎されました。その人数は35人、1,2反の百姓は数も知れないほどで、寵舎の四方にはかがり火がたかれ、浦上らの家来数十人が警固していたといいます。

祐尊は年貢よりもまず、自分を窮地におとしいれた農民たちに復讐しようとしたのです。それでも農民たちは年貢米を所縁の者や隣荘に預け、給主と代官(祐尊)を交代してくれるならば、一粒の未進なく年貢を納めると寺家に申し入れました。それを受け寺家では評定が開かれ、今年分の年貢については農民が直接京都まで運ぶこと、所務に対する祐尊の干渉を除くことが、全員一致で決定されました(12月12日)。ここに農民たちと祐尊との対立は、ご先祖様農民たちの勝利で終わります。

ただ、その後も現地(矢野荘)では混乱が収まらず、祐尊の下人と浦上の使者が農民に水による拷問を加え年貢を責め取っており、寺家は浦上に働きかけ、祐尊に対しても干渉をやめるよう再度命じています。しかし、翌年になっても事は収まらず、農民たちが耕作かなわず逃散したことを訴えると、寺家は守護に訴え、抗議してきた浦上に対しては断りを入れ、3月12日、祐尊の所務をとどめ新たな代官を任命することを決定します。こうして矢野荘は1年以上かかって、ようやく落ちつきを取り戻すことになりました。

ここに矢野荘で起きた惣荘一揆のあらましをみてきました。このように逃散など、単に武装蜂起をすることだけを一揆というのではなく、一揆にはいろんなやり方があります。では、そもそも「一揆」とは何なのでしょうか。次回、一揆の本質に迫っていきます。



タグ :一揆

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Posted by 矢野町交流広場 at 15:33│Comments(0)矢野歴史考
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