2016年04月19日
◆感状山ハイクとお姫様伝説
これも先月のこと。
3/28に相生いきいきネットのメンバーと感状山に登りました。感状山は2回目です。瓜生の八柱神社の脇から「バクの道」を通って登りました。
瓜生の八柱神社
この頃は、境内の桜はまだ蕾でしたね
つつじの紫が目に留まります
木のトンネル(お気に入り)
物見岩まで来ました
矢野の集落と山桜のコラボ この時しか見れないね
さて、今回、登山の目的は、感状山城落城の時のお姫様伝説をたどること。
秀吉が中国を攻めた時(1577)の城主は赤松則房。則房には二人の姫がいた。戦の負けを悟った姉姫は日ごろから可愛がっていた金色の羽をした鶏を抱いて、城内の井戸に身を投じて死んだという。それから、毎年正月に感状山の井戸付近から鶏の鳴き声が村人に聞こえたという。
ということで、その井戸を探しました。一つは大手門付近にあるようですが、ちょっと行けなさそうだったのでそこは断念し、もう一つの出曲輪の脇道を入ったところにあるらしい井戸を探しました。最初、行き過ぎてしまいましたが、安心してください、ちゃんとありました。
果たしてここに身を投げたのでしょうか。それとももう一つの井戸か・・・
帰りは階段から羅漢さんに降りました
では、妹姫はどうなったのか。妹姫は落城寸前に城を逃れ、麓の森集落の藤堂家で大切に育てられ、心のやさしいお姫様として一生を送られたそう。姫の死後、藤堂家の女性は美人ばかりが生まれ、これは姫の感謝が天に通じたためと伝えられています。
ということで、森集落に藤堂という小字があって、そこにお屋敷の跡らしい石垣があるというので行ってみました。
なるほど石垣が。地の人が言うには棚田ではなさそう
ここにお屋敷があって、妹姫はここで過ごしたのか。想像が膨らみます
側に「感状 藤堂 山城跡」という石碑がありました
裏に郷土史家の小林楓村氏の名前がありました
こ
3/28に相生いきいきネットのメンバーと感状山に登りました。感状山は2回目です。瓜生の八柱神社の脇から「バクの道」を通って登りました。
瓜生の八柱神社
この頃は、境内の桜はまだ蕾でしたね
つつじの紫が目に留まります
木のトンネル(お気に入り)
物見岩まで来ました
矢野の集落と山桜のコラボ この時しか見れないね
さて、今回、登山の目的は、感状山城落城の時のお姫様伝説をたどること。
秀吉が中国を攻めた時(1577)の城主は赤松則房。則房には二人の姫がいた。戦の負けを悟った姉姫は日ごろから可愛がっていた金色の羽をした鶏を抱いて、城内の井戸に身を投じて死んだという。それから、毎年正月に感状山の井戸付近から鶏の鳴き声が村人に聞こえたという。
ということで、その井戸を探しました。一つは大手門付近にあるようですが、ちょっと行けなさそうだったのでそこは断念し、もう一つの出曲輪の脇道を入ったところにあるらしい井戸を探しました。最初、行き過ぎてしまいましたが、安心してください、ちゃんとありました。
果たしてここに身を投げたのでしょうか。それとももう一つの井戸か・・・
帰りは階段から羅漢さんに降りました
では、妹姫はどうなったのか。妹姫は落城寸前に城を逃れ、麓の森集落の藤堂家で大切に育てられ、心のやさしいお姫様として一生を送られたそう。姫の死後、藤堂家の女性は美人ばかりが生まれ、これは姫の感謝が天に通じたためと伝えられています。
ということで、森集落に藤堂という小字があって、そこにお屋敷の跡らしい石垣があるというので行ってみました。
なるほど石垣が。地の人が言うには棚田ではなさそう
ここにお屋敷があって、妹姫はここで過ごしたのか。想像が膨らみます
側に「感状 藤堂 山城跡」という石碑がありました
裏に郷土史家の小林楓村氏の名前がありました
こ
Posted by 矢野町交流広場 at 18:27│Comments(0)
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