2015年01月20日

◆「矢野再発見セミナー」後期始まる



1月18日、「矢野再発見!セミナー」の後期第1回目が開催されました。約60名の方に参加いただきました。

この歴史セミナーは、秦氏の開拓から始まり全体史との関わりの中からその当時の矢野地域をみてきています。前期セミナーは黒田官兵衛の時代、惣荘一揆などで矢野の住民が最も自律していた中世「矢野荘」を勉強しました。

その後、矢野地域は秀吉の太閤検地後矢野荘は解体され近代に入るまで、領主が頻繁に変わったり分割支配されたりして、住民の表だった活躍がありません。そういう意味で、江戸時代の矢野地域を扱う本セミナーのタイトルを「矢野荘の残照」としました。江戸時代、休眠中の矢野荘=相生市は近代に入り造船で息を吹き返します。

そうは言っても、矢野地域の神社には赤穂義士四十七士の絵馬が数多く掲げてあり、浅野家の菩提寺である花岳寺の別院が小河の観音にあり、矢野地域と赤穂藩主とのつながりを感じます。そこで、後期セミナーは2回に分けて日本で最も演じられる戯曲「忠臣蔵」を色に添えてその頃の赤穂藩・矢野地域を見ていきます。

今回、山口先生は、秀吉以降の赤穂郡(赤穂藩)領主の変遷を丁寧にたどり、浅野内匠頭長矩が吉良上野介を切りつけた「江戸城松の廊下刃傷事件」までつなげられました。あらましを見ていきましょう。

①秀吉が天下をとり、播磨は秀吉の直轄地(蔵入地)と数名の側近大名が支配

②赤穂郡は最終的に57万石岡山城主になる宇喜多氏の支配下に編入
  宇喜多氏の家臣 宇喜多忠家が那波4ヶ村の領主、岡豊前守が上矢野・下矢野

③関ヶ原の戦い後、池田輝政が播磨に入部(姫路藩52万石 後に62万石に修正される)
  輝政の末弟、長政に赤穂郡2万2千石給付。赤穂城預ける
  1603年、長政が下津井に移転になり、赤穂郡は輝政の直轄とし代官を派遣支配

1613年、輝政の死去後、幕府の命令で輝政の子兄弟(利隆、忠継、政綱、輝興、輝澄)に播磨は分割されていきます。そのうち赤穂郡に着目して支配をたどっていきますと

④利隆が姫路藩を相続。その際、宍粟郡・佐用郡・赤穂郡を忠継に分ける

⑤1615年、忠継の死去により赤穂郡は赤穂藩として政継が相続

⑥1631年、政綱死去。跡継ぎなく、輝興が佐用(平福藩)から移転・継承

⑦1645年、輝興乱心により備前福岡に幽閉
  それにより、常陸国笠間藩から浅野長直が播州赤穂に転封

浅野はもともと美濃国土岐郡浅野村の出であり、この地はそれこそ秦氏の足跡の残る地です。三濃と美濃、どこまでも秦氏でつながっている因縁を感じます。長直は赤穂城を築城し、入浜式の塩田経営を本格化、浅野家菩提寺として花岳寺を建立します。

⑧長直の孫、長矩(内匠頭)が父長友の早世により9歳で家督を継ぎ、朝鮮通信使や天皇の勅使(使節)などVIPの接待役を承るようになります。そして、いよいよ1701年、長矩は勅使饗応役として勅使接待の折に松の廊下で刃傷事件をおこします。

ちなみに、大石家のルーツもたどれば、浅野長直が赤穂に転封した時に永代家老の大石良勝も赤穂に移転しています。そして、良勝の子と長直の娘鶴姫との子、長恒は長直の養子になり、浅野家(赤穂藩主)とこの地(矢野・若狭野地域)の関わりでいえば、長恒に1671年浅野家領地3000石が分け与えられ、若狭野地域を領有し若狭野村に陣屋(役所)を設けています。大石良雄(内蔵助)は良勝から数えて三代目の浅野家家老となります。

長くなってしまったので、一旦ここで切って、次回につづく・・・







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Posted by 矢野町交流広場 at 18:03│Comments(0)イベント等報告
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